木 下 2025/08/19
近 況
今年はなんだか暑さがこたえる。慢性的にしんどい。 加齢による体力の衰えが加速しているのを実感している。 腰が痛く曲がってきて、一分間に50mぐらいしか歩けない。 先日から咳と鼻水に悩まされているが、喉は痛くないのでコロナではなく夏風邪だろう。 オミクロンから変異したニンバスが流行っているようだが、これはカミソリを呑んだように 喉が痛いらしい。 今日は少し改善してきたので、近況報告を。
都心へ出かける回数も億劫で減ってきたが、テアトルエコーの演しものが 「ミナト街電化物語」という神戸の電気屋の話なので出かけた。 時は1951年、テレビが出来て、東京では放送が始まったが、関西は電波が届かずまだ映らないという時代。 ああ、これは大阪弁ではなく、まして京都弁ではなく、独特の神戸弁だわ、そのセリフの洪水にどっぷり 浸って楽しんだ。さすが、役者さん、神戸弁の微妙な所よくつかんでいる。
私達が小学校の高学年から中学生ぐらいの世情が色濃くでていて、電気店の日常の背景に、 朝鮮戦争、マッカーサー解任、サンフランシスコ平和条約などのニュースが流れる。 街頭で近隣の人達に交じって、街頭テレビを見た記憶も蘇る。栃錦と大内山の名勝負も街頭テレビで見た。 大内山の猛烈な上突っ張りを栃錦が耐えに耐え、起死回生のイチかバチかの首投げに大兵の大内山が舞った あの映像は今も忘れることがない。力道山とシャープ兄弟の活躍をテレビで見たのももあの頃だったな。 今回は舞台公演でなく、稽古場公演で、最前席の演技者のすぐ前の席だったので、セリフが良く聴き取れ、 70数年昔の神戸在住時代ににかえったようなひとときだった。
8月6日~15日、日本のカトリック教会では平和を祈る特別な期間。 さいたま北ブロックでは、行事の一つとして「東京都立第5福竜丸展示館」の学芸員の方を講師として 招き、8月9日熊谷教会で講演会を催した。 司会者の先唱で「主の祈り」を以て、講演会は始まったが、講師の女性の方は、 私はがちがちの仏教徒で、聖堂で主の祈りで始まる講演会は初めてとか仰っていた。
1954年3月1日、マーシャル諸島ビキニ環礁での米国の水爆実験ブラボーに、焼津のマグロ漁船「第5福竜丸」が ** 遭遇、放射線物質を含むチリなど、いわゆる「死の灰」を浴びて 乗組員23人が被爆。マグロやサメの汚染魚の 大量廃棄など人々を不安にさせ、半年後には無線長の久保山愛吉氏が死去、水爆実験反対、原水爆禁止運動が うねりとなっていく。私達が中学3年の頃のことだが、詳細はともかくとしてよく記憶している。 資料によると1952~1962で米国はマーシャル諸島ビキニ、エニウェトク環礁で67回の核実験、フランスは ポリネシアで1966~1974年で46回(1966~1996では193回)、核実験を行った由。
船舶への放射能被害は千数百隻、島民(原住民)の被害も次第に明らかになっていく。 講師の方は自分を「語り部」ならぬ「語り継ぎ部」と言い、体験者が居なくなっていく中で、 語り継いでいくことの大切さを強調されていた。 講演は8月9日だったので、長崎に原爆が落とされた11時3分には講演を中断し、黙祷を捧げた。
昨年の後期芥川賞「デートピア」(安藤ホセ)にフランスによるポリネシアでの核実験への言及がある。 同時期の直木賞「藍を継ぐ海」(伊与原新)短編集3番目の’祈りの破片‘は被爆した地質学に詳しい教師が 破壊された長崎の街で、大量の被爆した石のかけらを系統的に収集し原爆に迫ろうとする話。 原水爆は社会の隅々に時を越えて大きな爪痕を残していることをあらため感じる。
8月1日全国公開の映画「長崎」~閃光の影で~ を観に行った。被爆直後の長崎での3人の看護学生の話だ。 この季節はやはり「あの戦争」の引力にひきつけられる。
六甲時代、何年生の時だったか、どんな機会だったかは覚えていないのだが 武宮校長が「おまえたち、長崎に原爆が落とされた意味を考えろ」と言われた記憶が ずぅーっと残っているのだが、武宮校長は何を仰りたかったのか、今も判らないままだ。
木下
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