木 下  2025/02/25


 

  
  

  2月(近況

  立春は過ぎたがまだまだ寒く、陽春には程遠いのに、毎日眠くて仕方がない。

  朝、眠くて起きるのにぐずぐずしている。午後、ジム(スポーツスパ)から帰ると

  椅子に座ってうとうと、ときどき椅子から転がり落ちそうになる。夕食時にワインを

  飲むとたまらなく眠い。一日のうちしゃんとしている時間が少なくなって、
  
  一日が短く感じる。

  失敗の多いひと月でもあった。忘れ物、ジムにタオル、教会に水筒。

  もっともジムにはこれまでも、帽子、時計、タオルは時々置き忘れているし、

  以前、教会に水筒などはいったリュックサックを まるごと忘れたこともあり、まあこれはいつものことか。  

  ポイントのたまったTカードを紛失した、ポケットから落としたらしい。

  夕食の支度後、ガス台の上の換気扇のスイッチを切り忘れて翌朝までずっと回りっぱなし、

  ひと月に2度もやってしまった。

  初めての経験は、水道の蛇口を締め忘れ、3時間ほど、温水が出っ放しだったこと、

  コーヒーがなかなか出来上がらないと思ったら、コーヒーメーカーに水を入れるのを 忘れていたことが2度も、 

  この二つはちょっとショックだった。

  ゆで卵も、またまた空焚きしたが、焦げだす直前にはっと気が付いた。これは経験が 生きたのかも。

  
  恒例の友人の絵画展に調布市文化会館に行った。 この会の方たちは、気取らない

  温かな優しい絵を描かれる。楽しく描いている様子が目に浮かぶ。

  講師の方の作品は さすがプロと感じ入るものだったが、張り詰めた一種の緊張感も伝わってきた。

  絵画鑑賞の後、仲間たちと、駅前のイタリアンでワインを飲み食事をしたが、

  活気のあるレストランで、とくにウエイトレスやウエイターの動作が機敏、表情も明るく

  活き活きとしてとても気持ちが良かった。

  日経新聞の私の履歴書、岡藤正弘氏(伊藤忠商事会長CEO)はとても面白く  興味深く読んだ。

  実業界の現役の方が書かれるのは珍しいし、この時代、商社の繊維部門が苦戦する中で

  伊藤忠だけが突出して成功というのに、かねてより関心があった。

  なるほど、個性豊かな たいした方だ。

  伊藤忠には友人、知人もいるし 商社の事情もある程度わかるので、臨場感をもって読ませて頂いた。

  

  先月読んだ本「存在のすべてを」の中に言及されていた、サマセット・モームの

  「月と6ペンス」記憶が薄れていたので読み返した。いつ頃の授業だったか、

  和訳に てこずったことを思い、ユーモアのある皮肉屋のモームの「イギリスで美味しい食事をとるなら、

  三食 朝食を食べるべき」という有名な言葉も思い出した。


  友人に面白いミステリーと勧められ、「女の国会」(新川帆立著)を読んだ。

  著者は米国ダラス生まれ34歳の女性で、東大出身の弁護士、プロの雀士の資格も持つ 異色の方。女性の衆議院議員、地方議員、政治記者、

  それにLGBTがからむ読み易い ミステリーだが、その中で野党の幹事長が言う、「政治はねぇ、結果がすべてなんだよ。

  何もできない善人と政策を実現する悪人、国民はどちらに 国を託したいと思うだろうか」と。

  最近の世界を見ていると この言葉が刺さるね。

  図書館に返還されたばかりの本が並べられている棚がある。

  時々、その中から ふと目についた本を借りる。「殉教者」(加賀乙彦著)もその一冊。

  殉教者ペトロ岐部(1587-1639)については、詳しくは知らなかったが、

  殉教自体も  さることながら、長崎からマニラ、マカオ、マラッカをへてインドのゴアへ、

  ゴアからローマへ至る道程は 資料不足でよく判らないようだが、

  著者はホルムズ島、 ウブッラ、バグダード、アレッポ、ダマスカス、を経てエルサレムへ、

  そしてイスタンブールを経て 陸路ローマへと想定しており、その体力、気力、行動力、生活力、不屈の精神力に圧倒される。

  1615年4月から1620年初夏まで 5年かけて長崎からローマへ  海路14500キロ、歩くこと38000キロ。

  ペトロ岐部は有馬セミナリオで ラテン語を学び卒業、イエズス会士を志していた。

  父親が大友藩の水軍で 操船の技術を習った事が 働きながらの船旅に役立ったようだ。

  馬にも乗ることが出来、運動能力も高かったので、ゴアでラクダ曳きの技術を習得し,
  
  隊商に雇われ 砂漠を旅したのだろうと著者は想定している

  1620年11月ローマで司祭に叙階、さらに修練を重ね 1623年3月リスボンから帰国の途についた。

  話は端折るが、嵐や病気で死に瀕しながらインド、マレーシア、 タイ、フィリピンを経て1630年初夏に薩摩の坊津に着く。

  航海の難渋や災難に加え 日本への便船がなく、リスボンから帰国の途についてから7年半を要し、

  日本を出てから 15年の歳月が経つ。

  九州で司祭として活動後、信徒が増え、また信徒の逃避先でもあった 東北へと活動の拠点を移す。

  1639年仙台藩水沢で捕縛されて 江戸へ徒歩で送られ、度重なる尋問の後

  浅草の地で穴吊り、最後は焼きごてで体を焼かれて殉教。

  大目付 井上築後守が直筆で 「キベヘイトロはコロび申さず候」と書き残している。

  ペトロ岐部とともに、大物の外国人宣教師が尋問の対象であったせいであろうか、

  尋問の席には将軍家光、老中、柳生但馬守、沢庵和尚、なども参加した由。

  なんという時代だったのか。

  新聞の訃報欄は 日々習慣的に目を通している

  先日、一橋大学名誉教授 野中郁次郎氏の訃報がでていた。それで思い立って

  同氏の「失敗の本質」―戦場のリーダーシップ篇―を読んでいる。

  子供心にも太平洋戦争の記憶が多少あり、当時の社会の空気を肌で知る者には

  この時代の論説や話には いつもながら心に痛みを覚える。

  数日前には、アイ・ジョージ氏(享年91歳)の訃報も掲載されていた。

  「硝子のジョニー」もカラオケで時々歌ったが懐かしい名前だ。

  時は足早に流れて行く。 木下

  




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