MUZMUZ 15 木 下
2024年10月06日 長崎物がたり
知人の二人が、それぞれフェイスブックに写真をアップしたので、気がつきました。 それで、15会ホームページを開き、貴兄と田嶋兄の写真欄を見ましたが、今年は まだですね。昨年のこの季節には、お二人とも曼珠沙華の美しい写真を掲載されています。 埼玉県にも巾着田という所に群生地があり10年ほど前に訪れたことがありますが 沢山咲いていても、なにか哀愁を感じる花です。
曼珠沙華と言えば、昔からよく口ずさんだ「長崎物語」がすぐ思い浮かびます。
♬ 赤い花なら曼珠沙華 阿蘭陀屋敷に雨が降る 濡れてないてるじゃがたらお春 未練な出船の ああ鐘がなる ララ鐘がなる
♬ 坂の長崎 石畳 南京煙火(はなび)に 日が暮れて そぞろ恋しい 出島の沖に 母の精霊が ああ流れゆく ララ流れゆく 昔は「じゃがたらお春」はいわゆる「からゆきさん」だと思っていましたが、ネットに 溢れる情報のおかげで、ある時期にそうではないことが判りました。
お春はイタリア人でポルトガル船の航海士(パイロット)だった父と日本人の母(名前は未詳だが 洗礼名マリア)の次女(姉がいる)として長崎に生まれ、洗礼名はジェロニマ、 5歳の時にオランダ商館に勤める父が亡くなり、経済的に困窮し、母の父(寺子屋経営の祖父)の養女と なった。混血児は海外に追放するとの幕府の方針により、1639年14歳の時バタビヤ(インドネシア)に 追放された。帰れない故郷を思う手紙を長崎の友人に送り「じゃがたら文」として有名。 あまりに文章が美文調ですぐれているので、研究者からは疑義が呈せられ、長崎の文人「西川如見」の 創作ではないかとの説が、主流のようです。 お春はジャカルタでオランダ人「シモンセン」と結婚し、経済的に恵まれた生活を送り73歳で亡くなった。 遺産と遺書を子供にのこしている。~ネットのウイキや長崎出身のブロガーの情報~
長崎物語は1939年、由利あけみが歌ったものですが、哀愁を帯びた曲はシンプルで歌いやすく 歌うというより,口ずさみやすく、実に多くの歌手がカバーしている、昭和の名曲といって いいのでしょう。 渡辺はま子、平野愛子、松山恵子、美空ひばり、森昌子、天童よしみ、島倉千代子、藤圭子、、、 男性では、フランク永井、春日八郎、クールファイブの前川清、、、 等々。
全部ユーチューブで聴いたがそれぞれ微妙に個性のある歌唱で味わい深い。 強いて私の好みを言えば、平野愛子、男性では前川清でしょうか。 渥美清が映画「喜劇急行列車」の中、長崎の平和公園で、佐久間良子演じる憧れの人に 遭遇し、機嫌よく「赤い花なら曼珠沙華♪」と鼻歌を歌う場面があるとのことで 探したが見つからなかった。
暑さも和らいだので、このところ、旧知の人達との会合が続くが、誰しも確実に老いが 進んでいるようで、心が痛い。私自身、都心までの往復の電車と2~3時間の会合で 結構疲れを覚える。
今読んでいる本、満州国演義「残夢の骸」(船戸与一)は、終戦直前の政府や軍部の迷走、分裂、 無責任により,兵や民間人が無残に大量に死んでいく、そして参戦したソ連軍の暴虐、非道の場面が 続くので、腹立たしく、痛々しく、読書が愉しめない。
そんな秋の一夜、少しのワインで酩酊し、ユーチューブで「長崎物語を」を聴きながら 高校3年の長崎修学旅行を想い、妻が病で倒れる直前に旅した長崎を想い、憩いのひと時を 過ごしている、そんな近況を報告する次第です。
ついでに、3番、4番も記しておこう。
♬うつす月影 彩玻璃(いろガラス) 父は異国の人ゆえに 金の十字架 心に抱けど 乙女盛りを ああ曇りがち ララ曇りがち
♬平戸離れて 幾百里 つづる文さえ つくものを なぜに帰らぬ じゃがたらお春 サンタクルスの ああ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る
木下 |
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