「人生の秋に」 余田 -> 木下 -> 安嶋 メール転載
天国におられるホイヴェルス神父さまのお許しを頂いて、その著書「人生の秋に」の中より
宗さん母子を連想してしまった 一文を送る事にしました。
神学生の母
お祝いの晴着を着た人びとが 広い部屋部屋をあちこち歩いていました。
私がこの家に着いた時、一人の若い神学生が迎えに出て、嬉しそうな顔で挨拶をし、
人びとの流れをよけて、静かな隅に私を導きました。
十年ほど前、ときどき私のミサ答えをしたと話して、私を驚かせました。
その時の少年を、私はよく覚えていたのです。
重いミサ典書を祭壇の書簡の方から福音の方へ たいそう骨折って運び、
聖体降福式のときに、私の肩にベールムを掛けるのに、
かなり小さな体を そうとう伸ばさなければなりませんでした。
十年ぶりに会ったこの神学生が、あの少年とは思われませんでした。
その頃、一言も話を交わしたこともないほど、静かな無口な少年が、
今では元気な青年になって、長い黒のスータンを着ています。
それは、今日の晴着でした。スータンには数えきれないほどの小さいボタンがあって、
広いチングルム(帯)をしめ、ちょうど聖ステファノや聖ラウレンシオのような姿でした。
元気な、はきはきした口調で、私に勉強のこと、グレゴリアン聖歌の練習、
大祝日の儀式のことなど話してくれました。
友だちの中でも、彼は儀式の指導者と聖歌隊から 引っぱりだこにされています。
どちらにも興味をもち、よくできる彼は、あるときは祭壇の前につとめ、
あるときは聖歌隊に加わって聖歌をうたいます。
私たちが、こうして楽しく話し合っているとき、
愛のこもった目が、私たちの上に 注がれているのを感じました。
しばらくして 目を上げて見回すと、
人びとの肩ごしに 娘のように若々しい婦人が じっと私たちを見つめていました。
その顔は 大きな喜びに輝いています。
私たちの目が会ったとき、彼女は よく人びとがするように目をそらせず、
感謝のほほえみを 満面にたたえて見つめていました。
神学生は 向うの婦人の姿が 私の注意を引いたことがわかったのでしょう。
元気に彼女の方を指さして 「あれは私の母です」と言いました。
私たちは人びとの間を横切ってゆきました。
私は驚いて 「あなたのお母様ですか!」と思わず言いました。
「私はお姉様だと思ったのです」。神学生は 「いやあ!」といって笑いながら、
「私の姉もそちらにおります。こちらが父です」と教えてくれました。
神学生の母!私は長い間 人びとの後ろに立って、
じっと私たち二人を 眺めていた理由がわかりました。
そして この母の顔に世間の人びとには見られない
深い深い喜びが 溢れているわけもよくわかりました。
この母は、お乳を含ませていた頃から、
大きな望みを この子供の将来に託していたに違いありません。
この子供が姉と 「ミサ遊び」をするのを見たときの 母の喜びはどんなであったでしょう。
母の丹精で ミサ答えをすることも学びました。
母は ときどき子供の後から そっと聖堂にはいると、ほの暗い片隅から、
子供が祭壇のおつとめをするのを じっと見守りながら、心の中で祈ったことでしょう。
今では、この子供はラテン語や哲学を学んでいます。
これからまた 神学の勉強もしなければなりません。
どれほど勉強しなければならないか、母にはよくわからないのです。
母は この愛する子供が、神の祭壇に登る日を 日ごと待っていました。
神はいずれ きっとこの希望を みたし給うであろうと。
今日こそ、母の目が 私たち二人の上に注がれたとき、母にはもう何の心残りもなく、
ただ清らかな 喜びばかりがあったことでしょう。世の荒波をくぐりぬけて、
この子供が 光り輝く祭服を身にまとい、神の祭壇に登る姿を 母は見たのです。
天の み使いのように手を挙げ、神に向かって
天使たちの栄誦 「グローリア・イン・エクチェルシス・デオ」とうたうのを聞きました。
子供は天と地の間に、
すなわち 永遠にして全能なる父、いっさいの物を造り給うた天父、
いっさいを支配し給う天父と、キリスト信者の間に立っています。
人びとは、神に讃美を献げるために、わが子を天父に遣わしました。
母はみ堂で人びとの蔭に隠れて、子供の挙げる手を見ます。
天父に差し伸べるその手は、母から受けた手、この声も母から受けたのです。
この声は、今でもまだ少し 母の声に似たところがあるようです。
この声で、子供は神に 何よりも大切な 唇の讃美を献げるのです。
母は 心もちおののきながら、しばらく子供の真白な 気高い姿を見守ります。
心の中で母は 「見よ、主のはしためを、すべてはみ旨のままに・・・」と誦えます。
もしこの母の願いのようになるならば、もう世の中には悪も何もなくなり、
あらゆる人びとの心の中には、清らかな善意のみが 働くようになるでしょう。
天と地、そして、この美しい地のみが存在し、ほかには 何の汚れたものも存在しますまい。
今も、また永久に・・・母はこの希望を実現するために、その子供を神に献げました。
われら、主を讃え、主をあがめ、
主のみ栄えの大いなるがために、
つつしみて感謝し奉る。
母は群れ集う人びとの中に、子供のまぶしいほどに 気高い姿を見いだしたとき、
神が 子供の心を強め給うことを かたく信じていました。
その上、神が全能の御力と 豊かな聖心とをもって、
子供が祭壇に登る その日まで お守り下さるようにと願ったのです。
ちょうど同じ日の昼、食事のときに
私は一人の友に 「天国にも笑いがあるだろうか」という 愚かなことを聞いたのでした。
すると、その友はすこしも ちゅうちょせずに「もちろん、天国には笑いはない。
ただ清らかな 喜びがあるだけだ」と答えました。
私はこの夕方、この母の 清らかな静かな喜びを見て、
友のいったのも もっともなことだと考えました。
そうです。天国には、確かにこの母のような 深い静かな喜びのみが あるに違いありません。
フラ・アンジェリコの天使たちの顔に 描き出されているあの喜び、
確かに天国には 大笑いはなく、ただ溢れるほどの 深い喜びがあるのです。
この母の喜びには、今は まだ心配がまじっていましょうが、
母が 人びとの中に 私たち二人を見出したとき、
神はしばらくの間、この母の心配をお除きになりました。
その時の母の心には、静かな清らかな、深い深い喜びが満ち溢れていたのです。
余田