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2024年01月09日 近況

2024年正月報告
               2024年1月10日  小田 陽一

 今回の報告は3部構成にさせて頂きました。

<第1部> 40年以上勤務した「ダイハツ工業」の認証不正について

 2023年が何事もなく静かに幕を引きかけた12月20日、
突如として耳を疑いたくなるような テレビ情報が流れました。
あまりにも大きなニュースなので 一五会の皆様全員が ご存知のことと思いますが、
私が40数年間勤務した「ダイハツ工業」が長期間に多数の型式認証不正行為を
行っていたことが 内部告発で公になり、その全容解析と真因分析の結果と
再発防止策についての提言を依頼していた 第三者委員会からの報告と
社長からの謝罪が報じられました。

 先ずは、一五会の皆様の中にも ダイハツ車をお使い頂いておられる方が
沢山おられると思いますが、
OBの一人として 多大なご心配とご迷惑をおかけしておりますことを
お詫び申し上げます。恥ずかしい思いでいっぱいです。

 これを受けて、国内外で全車種の生産を 一旦中止し出荷停止をしました。
海外での生産は 再開されたようですが、
国内の全工場は 1月末までは再稼働されないと 報道されており、
関連部品メーカーや 販売会社や ダイハツ工業本体の 社員の生活と、
企業としての経常収支に どれほど大きな影響を与えるか 想像もできません。
予想を超える ダメージに違いありません。

 私がリタイヤして約20年になりますが、正直言って信じられない大事件です。
現役だった頃のダイハツ工業は、 極めて慎重で「石橋を叩いても渡らない」と
言われる程の 固い気質の社風があり、時には いらいらすることも 少なからず
ありました。

それなのに何があったのだろうか。確かなことは言えませんが、
一部で言われている「トヨタの遠心力」が大きな要因の 一つかもしれません。
直近の社長は 10名の内8名までがトヨタから来た社長であり 現在は100%子会社に
なっています。
役員幹部だけでなく、開発部門などの重要部門長まで トヨタからの出向で
占められており、「トヨタの遠心力」が働いても仕方のないことです。
遠心力には良き方向と悪い方向の両面があるのは 言うまでもありません。
再発防止を徹底しコンプライアンス意識を第一として 企業風土の抜本的な改革に
取り組むと宣言されましたが、一日も早い生産再開を願うばかりです。

<第2部> 能登半島大震災について

 私達は29年前の1995年1月17日に 阪神・淡路大震災の恐怖を経験していますが、
今回の能登半島大震災は、道路寸断による多数の孤立地域と 津波被害を伴っている
ことが大きな違いです。10日近く経っても 被害状況の概要が把握できない中、
多くの被災者が 支援を待ちながら 耐え凌いでおられるに違いありません。
一日も早い支援が必要な所に 必要な時に届くことが 最優先課題だと思います。

90%以上の家屋が壊滅状態の中、高齢者が多い約3万人もの 避難者の精神的活力を
呼び起こし、再度立ち上がるエネルギーは 何が一番効果的であるかを判断し
スピードある対応が 行政に求められています。

そのためには出来るだけ 正確な情報が不可欠なのに、
SNS上でフェイク情報が溢れていると聞きました。この発信者は悪魔の声の
発信者として 超厳罰に処せられるべきで、即刻止めてもらいたいです。

ウクライナの戦争被害の惨状と、パレスチナ自治区ガザ地区の地獄まがいの
被爆光景に 大震災の現実が重なって目にする日常は、
表しようのない虚無観しかありません。毎日の絶え間のない苦しみに対峙しながら、
懸命に生きている人々に 神様の救いの手を祈るのみです。

<第3部> 高松城と岡山城

 第1部と第2部は ストレスが溜る話になりましたので
少し話題を変えた報告をします。日本にはあちこちに お城や城跡が沢山あります。
昨年の正月は 和歌山城を訪れましたが、
今年の正月は「高松城跡」と「岡山城」を観に行きました。

 高松城は今治城と九州の中津城と併せた三大水城の一つで、瀬戸内の海水を外堀、
中堀、内堀に引き込んでおり、潮の満ち引きによって 新しい海水が流れこみ、
多数のスズキや黒鯛が泳いでいる光景は 非常に珍しいものでした。

 この城は、豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が その地を高松と改めて
築城しました。設計は当時の築城の名手であった 黒田官兵衛とも細川忠興とも
言われており 堅固な構えの城です。

生駒騒動といわれる生駒家の御家騒動があったため 松平家が城主になり、
高松は松平家の城下町として栄えました。
天守閣は老朽化により取り壊され、現在は天守台しか残っていませんが、
天守閣の再現が期待されており、美しい城構えの復活が楽しみです。

 瀬戸内のしまなみの絶景を満喫できる五色台に 宿をとり、
明くる日は 瀬戸大橋を渡って 岡山城と隣接する後楽園を観に行きました。

 岡山の地を戦国時代の表舞台に立たせたのは、宇喜多直家とその子秀家でした。
豊臣秀吉とは固い絆で結ばれた宇喜多家は 秀吉亡き後も豊臣家に仕え続け、
関ヶ原の戦いによって 岡山城の歴史が大きく変遷して行くのは
大変興味深い物語です。

当然西軍についた宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いが 火蓋を切った東軍の福島正則との
戦いで互角の勝負になり、一進一退は家康を悩ませましたが、
西軍の小早川秀明が東軍に寝返り、横を突かれた宇喜多軍は惨敗し 関ヶ原の戦いは
短期で東軍の勝利で終わったのは 余りにも有名な話です。

東軍でもう一つ家康勝利に貢献したのは、家康の後部から 挟み撃ちを狙っていた
毛利軍の動きを封じた池田光政軍です。
この宇喜多・小早川・池田軍が その後の岡山城の成り立ちに 大きく関わることに
なりました。敗戦の宇喜多氏家は八丈島へ流布され、東軍勝利の最大の功労者である
小早川秀明に城主が変わりました。しかし小早川秀明は早死にし後継者がいなかった
ことから、池田光政に城主が変わり 明治維新まで ずっと池田家が城主を引継いで
岡山の繁栄に努めました。岡山城の成り立ちと切っても切れないのが関ヶ原の戦いで
あり歴史好きの我々夫婦には大変楽しい散策でした。

 岡山城の天守は、織田信長の安土城や 豊臣秀吉の大阪城同様に外壁は黒塗りの
下見板で覆われていて「烏城」の別名があります。写真写りの良い見事な天守閣は
昨年秋に訪れた「熊本城」にも引けを取らない美しさでした。


 つたない文章の三部構成になりましたが、
旅の記憶に止めおくには 丁度良い内容になりました。
最後まで読んで頂き ありがとうございました。感謝。









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