大田夫人のお手紙
    六甲学院15期生の皆様、お元気にお過ごしのことと、お喜び申し上げます。

  主人が他界の折には、皆様からお花と弔電を頂き、またお忙しい中、告別式に
    ご参列頂き、お香典を頂戴し、厚く御礼申し上げます。

  今から約5年前の平成10年6月、神戸ポートアイランドのホテル ゴーフルリッツで
    開かれたクラス会に出席させて頂いた頃、主人はまだ杖をつき乍ら、
    新幹線で神戸まで行くことが出来、皆様にお会いしてとても楽しいひとときを
    過ごすことが出来ました。

  これが二人で出掛けた最後の旅行となり、二人にとって大切な思い出となりました。
    主人が東大病院血液内科で、多発性骨髄腫という聞き慣れない病名を告知されたのは、
    定年を間近に控えた平成9年1月末のことでした。

  結婚以来、仕事一筋にひた走りに走ってきた主人が、定年後は二人で旅行をしたり、
    テニスをしたりして、ゆっくり過ごしたいというささやかな夢を描いていた矢先のことでした。

  どうして主人が! どうしてこんな病気に! と受け入れられない気持でいっぱいでした。
    多発性骨髄腫は、まだ症例も少なく、現在の医学では完治させる薬もなく、医療技術も
    開発途中のもので、いつの日か、この癌を完治させる医療技術が開発されても、
    主人はその技術を享受できないまま終幕を迎えることになるのではという不安を
    持っていました。

  しかしし主人は常に前向きに、医師から指示された治療を受け、骨髄に発生した腫瘍を
    小さくする為に放射線治療を受け、いろいろな組み合わせで、ほぼ抗癌剤の全てを使って
    癌細胞をやっつける為に闘ってきました。

  けれども、放射線治療も化学療法も根本的治療ではなく、対症療法(もぐらたたき)に過ぎず、
    その副作用(吐き気、食欲不振、倦怠感、味覚障害など)に苦しまなければなりませんでした。

  そんな中、癌治療の最先端を行くアメリカにおいてすら、代替療法に早くから取り組んでいる
    ことをいろいろな書物を読んで知り、癌に効くという数種類の健康補助食品を取り寄せ、
    主人に服用してもらいました。

  一時的に頭髪が薄くなったこともありましたが、主人は幸いにも白髪も目立たない位の
    黒い髪を最後まで保ち続けていたのは、一つの救いでした。

  しかし平成13年5月、脊髄に発生した新たな腫瘍が、下肢を動かす神経を圧迫し、
    全く歩くことが出来なくなってしまいました。

  出来得る限りの放射線治療と化学治療を受け、残されているのは、痛みのコントロールをする
    だけという状態となり、痛み止めの薬を服用し乍ら少しでも良い状態が長く続くことを
    願っていました。

  やがて、強い薬の副作用で意識障害が出て妄想に走るという状態が現れるようになり、
    平成14年12月末には (あと1年はむずかしいでしょう)と医師に告げられました。

  (主人をこのままの状態で終わりにさせたくない。 出来ることなら苦しまないで、
    より良い環境の中で最期を迎えさせて上げたい)と強く思うようになりました。

  その頃書店に並ぶ、日野原重明先生の本に引かれ、何冊か読んでいる内に、
    是非先生が院長をしておられる聖路加国際病院の緩和ケア科(ホスピス)に
    主人を入院させて上げたいと願い、申し込みから1ヶ月余り待った後、
    漸く転院することが出来たのは、今年2月26日のことでした。

  聖路加病院に移り、同じ痛み止めでも、今までと違う薬に変わると、不思議なことに、
    意識状態が改善され、元気を取り戻し、普通に会話も出来るようになり、
    このままどんどん良くなって行くのではないかとさえ思われるほどでした。

  緩和ケア科は、他の病棟と違い、静かな落ち着いた雰囲気に包まれ、医師も看護婦さんも、
    いろいろお世話をして下さるボランテイアの方々も、穏やかな、人当たりの良い
    優しい方達ばかりで、少しずつ主人の容体も安定し、
    主人も家族の者も、ほっと心休まる日々を送ることが出来ました。

  90歳を過ぎてもなおお元気な日野原先生は、度々主人を見舞いに部屋を訪れて下さり、
    優しく励ましの言葉をかけて下さいました。

  主人の乗った車椅子を押し乍ら、病院内のチャペルを訪れたり、病院のお庭や公園、
   近くを流れる隅田川のほとりを散歩するのが日課となりました。

  満開の桜や美しいバラの花、つつじやまぶきの花を眺めながら季節は移り変わり、
   梅雨の晴れ間に色鮮やかに咲いた紫陽花の花を見に行ったのが、
   最後の散歩となってしまいました。

  散歩から部屋に戻ると、CDで主人の好きな音楽を聴いたり、
    桂枝雀の落語を聴いたりするのが楽しみでした。

  聖路加病院に入院してから5ヶ月程は、痛み止めの薬により上手くコントロールされ、
    平穏な日々を過ごすことが出来ましたが、やはり病気の進行は徐々に進み、
    背中、胸、脇腹の痛みは激しくなり、睡眠薬で眠ることにより、更に痛みを抑える
    という方法がとられました。

  眠っていることが多くなった主人でしたが、まだ言葉を口にすることが出来た頃、
    子供達一人一人の名前を呼び、(ありがとう。)(ありがとう。)と声をかけ、
    私に(ごくろうさん。)と言ってくれたのが、最後の言葉でした。

  告知から6年8ヶ月という長い間、懸命に癌と闘い、最期は家族全員に見守られ、
    安らかに息を引き取りました。

  長い闘病の間、皆様から励ましのお言葉を頂き、どんなに心強く慰められたことでしょう。
    いつも有難く感謝していた主人に代わり、心より御礼申しあげます。

  どうぞ皆様、お身体をお大事にお元気でお過ごし下さいませ。


  平成15年12月7日     太田千世子

梅雨の晴れ間に色鮮やかに咲いた紫陽花の花 献 花