森寺メール 07/07/08



木村忠昭君(アンパン)の思い出

アンパンとはじめて話をしたのは、卒業後である。 
在校中は、恐ろしげな連中の一人として敬遠していたし、
向こうも私を面白さのない奴として、相手にしていなかったのだろうと思う。 

卒業後、確か二年後ぐらいだったと思うが、私がよく通っていた、阪急六甲駅の北側に
ある喫茶店(カウンターしかない、精々6,7人しか入れない店。店名は忘れた。)で
アンパンとばったり会った。 
多分、「やあやあ、−−−」と云う調子で、話を始めたのだろうと思う。
アンパンがその頃入っていた同人誌のメンバーと一緒だったことから、
話題は、文学、同人誌の話になった。 
私もその頃丁度大学仲間と同人誌をやり始めたところだったので、
在校時代とは別次元での付き合いが始まった。

しばらくして、私もアンパンの属する同人誌の同人になり、付き合いが深くなった。
「群」という同人誌で、確か同人が15,6名だった。 
アンパンは“里美大介”と云うペンネームで、毎号かなり精力的に書いていた。 
月2回程度の頻度で、例会があり、今思えば青臭い文学論議を戦わせたものだった。 
例会の場所として、時々アンパンの自宅を使うことがあったため、よく行ったものである。 

文学談義が発展して、一部のメンバーに京都松竹の大部屋俳優などを交えて、
映画創りまでやった。 確かアンパンの書いた脚本をもとに、大部屋俳優、
かわいい子ちゃん、を使って、私が撮影を担当した。
銀レフを担いで、三宮でロケまで行った。

この付き合いは、私が大学を卒業し、東京に行っても、手紙などでつづいたが、
私が仕事で忙しくなり、結婚してからは、徐々に疎遠になっていき、
20代末で途切れることとなった。

50代になって、思いがけずアンパンに再会する。 
三宮でアンパンがやっていた店、多分少なからずの同期のメンバーはご承知と思うが、
あの“囲碁”が置いてあった店が、縁となった。 
会社の関係者で囲碁気狂いの男が、囲碁関係者と時々この店に通っていたらしく、
たまたまアンパンと話していて、会社の名前が出、私の名前が出たらしい。

ある夜、突然その男から酔っ払い声で「私が何処にいるか分かりますか」という一声で、
20年ぶりに話をし、出張にかこつけて、再会した。
しかし、私も忙しく、大阪までは1回/月程度出張していたが、
なかなか神戸まで足を伸ばす時間が取れず、2回ほどしか行けなかった。

最後は、2年ほど前の神戸15会であった。 篠山に引っ込んだが、
まだ、書いていると言っていたし、旨く行けば出版できるかも、とも言っていた。
また、映画創りをやった時の脚本が 最近出てきた。 
いずれ、コピーして送るよ、とも言ってくれていた。

最後まで、文学青年であった。 最後まで、若さがあった。 うらやましい。