近況(粟本神父帰天と六甲15期)
粟本神父の帰天の知らせを受け 7月22日四谷のイグナチオ教会での葬儀に参列した。
そもそも六甲15期生と粟本神父との関係の最初は白川による。
息子洋平君が六中に入学した時に校長だった粟本神父に父兄として会い「
一度私の話を聞くように、面白くなければ2度と話さない」と誘われ、話(公教要理)を聞いて
1年後に家族全員洗礼を受けたことが始まりだ。
神父の信頼を得た白川に15期の仲間を集めろと言うことになり、白川の声掛けで武田が事務局的な動きをし、
集まったのが五代、名村、梅村、田嶋、藤田、伊藤、大久保、飯田、武田等で、
白川宅で粟本神父の話(公教要理)を聞くことになった。
堅苦しい話では集まりにくいだろうとRKK(六甲経営研究会)と名付け1時間程神父の話を聞いた後で
殆んどの時間は白川夫人の手料理の酒肴とアルコールで、商売の話、株の話、不動産の話など
40歳前半の働き盛りの連中の情報交換と雑談を楽しむ会であった。時々15期生の特別参加もあった。
殆んど毎月集まっていたが粟本神父がイエズス会日本管区長の重責を負われて時間が取れなくなった中でも**
数ヶ月に1回は我々のために来られRKKは続けられた。
そして時が至り六甲学院の御聖堂で伊藤、田嶋、大久保、五代、藤田が粟本神父の洗礼を受けた。
三朝温泉で合宿をした際には梅村が知り合いの僧に頼んで皆で座禅を組んだこともある。
白川の死後には白川夫人も加わって舞子ホテルで合宿をしたこともある。
粟本神父の叙階50年の金祝にも参加し私が写真アルバムを作って贈ったりもした。色々と思い出す。
粟本神父が東京に移られRKKは途絶えた。その後、飯田が神父との連絡を取ってくれていたが
彼の死後神父との連絡が途絶え、どうされているかなと思っていた中での訃報であった。
私が受洗をしたのは45歳であまり熱心な信者ではないが、86歳まで何とか生き延び
六甲15会の世話が出来ている。
粟本神父には感謝の気持ちが強いし、
私自身「間質性肺炎」の宣告を受けているが
これからも精一杯生きて行きたい。
粟本神父が安らかに眠られることを祈る。
|