徳川幕府崩壊 2025/11/06
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徳川幕府を支えた儒学 その体制を破滅させたのも儒学 われわれの年台も その一端を 漢文授業や 日々の生活で ** 経験してきたが 平成・令和では 「先生 わがしのおん て何ですか?」の 教育現場での変化。 質問側は 4派に分かれ 「わが師」と「和菓子」 「恩」と「音」の分派行動質問 今や AIの時代 何も悲観することはない! 「徳川幕府崩壊」を添付。 吉井
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徳川発祥の地 松平は豊田市に住む小生には
近い存在である
市の中心から距離:12キロ
車で:25分
若い頃には 撮影で頻繁に通った
春夏秋冬 山里特有の趣きがあり
山間にこだまする ウグイスの鳴き声
時折 下手なのもおり 一時の
至福を感じる
名所旧跡戦跡や 資料館もあり
歴史の興味への 豊富さを堪能できるが
徳川幕府の栄枯盛衰を 問わずには
いられない
なぜ 徳川幕府は 滅したのか?を
そのたびに 考えさせる材料も多い
教科書習いの通説では その主因は
財務・財政の失敗
幕府貨幣の不信用でインフレ
その対策の年貢の悪操作
商業活動の規制強化で民の反乱
幕府の統制の弱体と雄藩と諸藩の反抗
追い打ちの ペリー来航への
世界観なき 弱小国対応
だが
これら主因の主因は 儒教であり
儒教こそは 幕府衰退への案内役
このことを指摘する
日本歴史家はいない
儒教への徳川体制の信頼は
まさに 統一教会的様相で
これを可能にしたのが 徳川教会と
それにすり寄った 強固な武士団の
信者達である
湯島聖堂も昌平黌も 教会の本部と支部
儒教を儒学と昇格し 冷静な目で
視れば 有象無象のパンダである
儒学者や儒教徒を
官も民も 有難がった
この中心に 泰然と座したのが
林羅山で 徳川家にすり寄り
方広寺梵鐘の銘 「国家安康」を
「家」と「康」に引き裂いたと
こじつけで 豊臣を壊滅させた張本人
朱子学を奉じながら 仏僧に仮装し
その仏教を非難する 離れ業の
今様の 超絶・希代の「詐欺師」羅山
「羅山」は 当時の朝鮮文献からの拝借
かくして 遠きを崇め 近きを滅する業師
さらに 漢民族へのすり寄りは
神武天皇を太白(漢人)の末裔と言い出し
林姓を 「りん」と呼ばせ
幕府は 「りんけ」と崇めた
鎖国を奨励し 西洋で興りつつあった
地動説や 地球球体異論に違を唱え
天動説と地球方形論を固守
異論を唱えたことを 非難するつもりはない
羅山が 自己の専門外の事を 自己流で
教導しようとした その行為を非難する
手練手管で獲得した 地位に固執し
幕政を誤導した罪は 本人が気づかないのは
歴史の必然であり 以後の他者や学徒は
大局観を持ち 誤導されては ならない。
幕府が建てた 湯島聖堂やその後の
昌平黌は 儒教の教会本部と支部
聖堂 ご学問所 孔子廟と有難がり
一石を投じたのが
当時の落語家 正蔵
林家と改正して 「はやしや」と名乗り
江戸住民の武士も庶民も 落語の本命
「オチ」の世界へ 誘われた
幕府崩壊の一因 ペリー来航の下田
その歴史を探訪で
ホテルは中国人で満杯 レストランは
入場不可 現実の厳しさを体験
幕末期 半島の要所要所は
雄藩や譜代大名が 警護に当たり
縁起のよい 「山鹿流陣太鼓」を
各藩は 懸命に練習し
メリケンの数百の艦砲に 備えていた
山鹿流陣太鼓の祖 山鹿素行は
林羅山の 愛弟子である
太平の時代の戦法の祖を この危急時に
崇めていた
ペリー提督の出生地 ロードアイランド州
ニューポートへボストンから レンタカー
28歳ころで 米国免許取り立て
紙のロード・マップが 頼りで
目的地へ着いたが 街中を観察する
余裕もなく 提督の像を見たのか
視なかったのか 記憶なし
ただ 田舎の町で 印象は薄し
食事をした 記憶もない
ペリーは
14歳9か月で海軍士官候補生となり
世界情勢を 肌で感じている
異国の優れ者と競争できる 儒者はいるか?
彼の弱点 straightとstraitのスペル区別が
出来なかった!
両語は 同音異義語で
前者は「まっすぐ」 後者は「海峡」
彼の「艦長航海日誌」は
これらの語句の 混同サンプル
だが彼は なかなかの知恵者 これも彼の 「罠」の 一つで 愚人を喜ばせ
誘う 戦法か? ロードアイランド州ニューポートで、
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