六甲春秋  沈黙の人・聖ヨゼフ  2023/04/26

最近は教会の庭も、すっかり見通しが利かなくなった。
見ることも、見られることもすっかり不自由になった。しかし樹木ごとに、ミドリ色の
色調が異なり眼に鮮やかだ。太陽光線をはじき返して、新緑がピカピカ耀いている。
暖ったかい春の到来は嬉しい限り。 

さて教会は5月1日、聖ヨゼフの祝日を祝う。
しかし本筋は、復活節第四月曜日の典礼であり、任意として労働者聖ヨゼフのミサを
捧げてもよいことになっている。

「毎日のミサ」によると、1995年にピオ12世によって定められ、
イエスを育て 家庭を営んだ ナザレの大工ヨセフは、キリスト者に労働の尊さの
模範を示したと解説している。

しかし歴史の大きな渦に巻き込まれたキリストの教会は、16世紀に宗教改革によって
プロテスタントの熱心な多くの信徒が離反し、近代に至って知識人を失い、
次に労働者階級を去らせ、さらに女性群に 背を向けられたといわれる。

ヨーロッパのキリスト教会は
残念ながら、真の意味ではヨゼフの真価を 認められなかったのではないか。
彼が示した沈黙の意味と、肉体労働の価値とが 久しく軽んじられてきた。
この意味では、マリアの許嫁であり夫であるヨゼフは、影の薄い聖人と言えそうだ。

それが証拠に ヨゼフの名前を冠する修道会は、
母であるマリアの名前を頂く修道会と比べて 極めて少ない。
聖像や聖画は決まってヨボヨボのお爺さんとして描かれている。
マタイ福音書では、意図的に(?)アブラハムの子であり ダビデの子である
イエスの系図から、彼は除外されているように見える。

またイエスの誕生のドラマでも、沈黙のまま主の天使の指示に ただ従うばかり。
30年ほど後で、イエスが公の活動をしていた時の挿話に 母や兄弟たちが登場するが、
父親のヨゼフへの言及はない。彼はすでに没していたのか。
そこに登場する兄弟たちとは 何者なのか。
一般的には、ヨゼフの前婚の連れ児と解されてきたが。

ルカ福音書の誕生物語では ヨゼフは許嫁とされるが、もっぱらマリアの独壇場である。
しかしイエスが12歳の時の出来事に、イエスを見失い 必死に探し回る両親として描かれる。
またイエスの系図には、ヨゼフの息子と思われていた・
見なされていた(ノミゾマイ)という動詞が使われている。

ここからは、わたしの個人的な聖書理解であるが、
まず許嫁はマリアに相応する 若々しい青年であろう。
連れ児を引き連れた老いたヨゼフではない。

また当時の伝統的な慣習から見て、イエスに養育・しつけを与え、
宗教的な敬虔さを身に付けさせ、ユダヤ人としての聖書的な伝統と知識を教えたのは、
安息日ごとに 会堂に行く家長のヨゼフ以外に考えられない。
後年のイエスの福音宣教に際立った、人々の生活に限りなく近い教え方、

たとえ話、律法理解などは、
ひとえに父親ヨゼフを通して イエスに受け継がれたと考えられる。

当時の状況からみて、ヨゼフの兄弟を どうしても連れ児と解すべき必然性があるのか。
私は夫婦の性という交わりに、まったく異質な人間的な解釈を持ち込むことを
避けたいのだが。シラ書では、仲の良い夫婦を口を極めて褒め称え、

また子供の養育に尽くす父親を 次のように描写する

「子供をしつける父親は 知人の間で自慢ができ、友人たちに誇れる。
この世を去っても、そっくりの子供が 後に残っているから」と。

中村健三神父