余田 メール  22/05/11


晩餐のエピソード





山へは未だ行ってません。うららの体調が良くないからです。
近況と言っても平凡な毎日なので、特記すべきことが見つかりません。
以下に記す文章は、何時もながらの「私に啓示された福音」からの引用で
あなたが載せた方が良い!と判断されたときのみ、掲載して下さい。


晩餐のエピソードからのメインテーマから、二つ。
イエズスが言われる。
中略
第三に、自制心と、侮辱への忍耐です。あらゆる侮辱を卓越する寛容な態度は、
わたしが示したように、愛の掟を自分の生き方にする人だけに可能なことです。
そして、わたしはそれを示したばかりではなく、実践しました。

裏切り者が同じ食卓についていることが、わたしにとってどういうものであったか、
想像もできないでしょう。自分を彼に与えなければならず、彼の前に自分を低くし、
儀式の杯を共有し、彼が口をつけた杯にわたしの口をつけ、わたしの母にも口をつけ
させました。

学者たちは、わたしの終焉がいつから始ったかを論じていて、いまだに論じていますが、
鞭打ちによる心臓障害からだと言います。けれども、晩餐のときに、
心臓は打撃を受けていたのです。

裏切り者がそばにいることを耐える努力によって、
心臓は傷めつけられていました。晩餐から、わたしの身体的な死は始ったのです。
後に続いたことは、すでに存在していた苦悩を増しただけでした。

わたしは、わたしにできることをしました。わたしと一体だったからです。
愛なる神わたしから離れられたときも、わたしは愛することができました。
わたしは三十三年間、愛の生活を送ってきたからです。侮辱する人を赦し、耐える
ことが要求されるのですから、愛する習性が身についていなければ、完全に近づく
ことはできません。わたしは、その習性が身についていたので、最大の侮辱者
赦して耐えることができました。それはユダでした。

第四に、秘蹟の効果は、それを受ける人がふさわしい人であればあるほど、大きく
なることです。ふさわしい人とは、善意を持ち続け、肉体を抑え、精神に支配させ、
色欲を抑え、自分の存在を徳に向け、それを弓のように曲げて、完全へと、時に
へと向かわせることのできる人です。

愛する人は、相手を幸せにしたいと思うものです。ヨハネは、だれよりもわたしを
愛し、純粋なひとでしたから、秘蹟によって最大の変化を受けました。あの瞬間から
、彼は鷲になりました。のおられる高天によく飛翔し、永遠の太陽を見つめます。

けれども、秘蹟を受ける資格がないのに受ける人は不幸です。それどころか、大罪に
よって、人間的価値をますます下げます。命の保存ではなく、腐敗と死をもたらされ
ることになるでしょう。

霊魂が死に、肉体が腐敗すると、ユダについてペトロが言うように、『破裂』します。
美しい紫色の血液を流すのではなく、好色によって黒ずんだはらわたが飛び出し、
腐敗した体から腐汁が流れ出て、不浄な動物の死体のように、
通行人に嫌悪を催させます。

秘蹟を冒涜する人の死は、つねに、絶望した人の死です。すなわち、恩寵を受けた
人に特有の平穏な死や、犠牲として苦しみながらも天にひたすら視線を向け、霊魂の
平安を感じる英雄的な死ではありません。絶望した人の死は、悶え苦しみや、恐怖に
特徴があります。

それはサタンに霊魂をわしづかみにされたような怖ろしい痙攣です。
サタンは霊魂を体から引き離そうと締め付け、おぞましい息をふきかけて窒息させよう
とします。愛と信仰と希望とあらゆる徳と天上の教えと天使のパンー成果をもたらす

パン、それは実態を伴えばもっとすばらしいのですがーで養われた後に最後の旅路に
出る人と、恩寵秘蹟も慰めることのできない野獣の死との、なんという違いでしょう。

前者は、聖人の穏やかな死であり、その人には、永遠の王国が開かれます。後者は
地獄に落ちる霊魂の怖ろしい落下です。その霊魂は、永遠の死への落下を感じてすぐに、
何を失うことを望んだか、そして、もはや取り返しがつかないことを知るでしょう。

前者が得るのは喜び、後者が得るのは剥奪と恐怖です。
これは、あなた方が自ら選ぶものです。
信じて愛するか、あるいは、信じずにわたしの贈り物を侮るか。
これが、この黙想での教訓です。