魔 弾 の 射 手   21/06/18


この時期 お決まりの挨拶は抜き。
明るいニュースは、大谷翔平君の野球本場での活躍と
わが「阪神タイガース」の「モタモタ勝利」。

「魔弾の射手」投稿します。
200年前の今日、歌劇「魔弾の射手」は
ベルリンにて初デビュー。





魔弾の射手 2021/6/18

歌劇「魔弾の射手」は 200年前の今日
1821年6月18日 ベルリン王立劇場で初演。

以後 
世界政治の舞台で 歌劇から過激「魔弾の射手」は
21世紀版では 登場人物の変遷を経て
世界記念公演 続演中である。

政治が正義や論理で動くなら
この世はパラダイスで 当に「地上の天国」である。

2400年前 ギリシアの哲人 
つまりは 「ヒマ人」にして「高等遊民」が描いた
理想国家の実現に 「哲人王」を期待し
彼への崇高な教育で 正義こそ 民を幸せにするとの
思想が受け継がれ 今日に至り
今や 民主主義こそ 民の幸福を約束するす国々と
それに対峙して んな理想主義では 
国営は困難とする 独裁国と独裁者の競演。

冷静に 様々な主義を見比べると
国の体をなしているのは 独裁国であり
片や 民主主義や自由主義は 旗色悪しの現状である。

だが 結論を急ぐと 
独裁は 強固になればなるほど劣化を招き 魔性と直結する。
歴史上 この例外はない。

独裁には 中心(核心)的人物が 不可欠で
時代を耐え抜いた独裁には 確固たる目標と 
情も実も 目標達成のためには否定する
強固な信念と執念が 風雪に耐え 脈動する。

独裁には 万古不易の論理も倫理も正義も 介在せず
確実に断言できる事実は 勝つか負けるか
生か死かの 二者択一の世界である。

従って 他の世界である 民主主義や自由主義の
追従者が描く  おきまりの「話し合い」は 
独裁者には 妄想に過ぎなく 歩み寄りは 存在しない。

独裁や独裁者が 他者にとって厄介なのは
他者の存在は 被支配者としてのみ 定義化し
利用価値がなければ 遅滞なく処分の対象と見做すことで
これが出来なければ 独裁や独裁者の名に値しない。

しかし 現実に立ち返れば
独裁や独裁者を 全否定することは 言葉の遊びであり
「ごまめの歯ぎしり」である。

独裁や彼等から学ぶべきは 多々あり
独裁に欠かせないのが 迅速な決断と実行の同時進行 
の厳しい世界で 生き抜くことであり
これなくして 「独裁」は存在できないことで
遠回りも 時間つぶしも 
命取りになることを 彼らが熟知していること。

そのためには 常に 氷の様な冷静さで
氷の様な透明さで 氷の様な冷酷さで
私念を公念にすり替える 氷の技を必要とする。

さらに 独裁者が慎むべきは 
他の独裁者へ 介入することで
調子に乗り踏み外すと 自らの首を絞めることになり
古今の卓越した独裁者は これを熟知し
仁義の世界で 他の縄張りを侵さない 行儀のよさがある。
これで失敗したのが ヒットラーで 仁義に反して 
スターリンの「島」へ 踏み込み お陀仏!

独裁者の さらに優れた点は
彼等同志が 互いに認め合い 切磋琢磨するのが
成功する 「独裁道」であり 今も
独裁国が非難を浴びると 中露はまず 助け船を出すのを
我々は 幾度となく 経験して来た。

独裁は内部を強固にした後に 外部に対応するが
非独裁(一応、民主主義と呼ぶ)側は
自己の内部の脆弱さには 全く無関心で つまりは
「土台ガタガタ」で 独裁に対応しようとするのは
「敵が見えて 己が見えない」最悪の 戦闘隊形である。

これでは
民主主義側が望む「話し合い」などに 
独裁側は関わり合うヒマはないことに
何時まで経っても 目覚められない繰り返しで
繰り返すが 「話し合い」の入る余地はない。

独裁は ためらうことなく 鋭く 民やその集団に切り込み
流血や死者が出ても 一切の責任を民やその集団へ転嫁し
独裁は 無謬性を謳歌し
ここで 人権や民族性や多様性は 「虫けら」へと転落し
「人民」は「塵民」となり 民は反国家賊扱いとなる。

地球規模では 「独裁」だが 実態は
国レベルでは 暴力団や マフィアや やくざの抗争であり
地球規模なら 国連で 独裁も常任理事国となり
その猛威の前に 被害者の国々は 血税の分担金を払いながら
成すすべがなく 70年を経過した。

民主主義は 物理的状況を 軽視と無視し 
心理的状況を 優先するが
独裁は 物理的状況を優先し 心理的状況を容赦なく破壊し
限定された域内なら 前者の座席は確保可能だが
地球規模の生(政)態系の変動では 後者の独壇場となる。
読み取れるのは カオスこそ 独裁を育てる。

独裁は
国家(領土)と国民(領民)を 食いものにするだけではなく
それらを盾にして 巧妙に 独裁の魔性を隠ぺいし
食いものにされた側も 盾にされた者も
魔性のもたらす効果が絶大で 覚醒への道はない
いわば 一方通行の まさに 独裁と魔性の「一体一路」であり
修正や対峙を試みても 反国家とテロリストの烙印で
犠牲者は逆走と見做され 周到に用意された 囲い追いで
行き先は 断崖絶壁への The Endである。

加速する「独裁の深化」が 約束するのが 
独裁の進化した 「魔性」である。

独裁は 巧妙に論理化された魔性であり 魔弾であり
何者をも 意に介しない追従者が 喜び勇み
独裁を擁護・弁護・警備して 魔弾の射手となる。

「独裁」から学ぶべきは 多々あるが
独裁者は 安住からは無縁で 近しい者が一番危険であり
危機管理は徹底しており 「抜けた独裁者」はいない。
独裁者のトップ連は 地上で一番信用できる 
互助・互信ユニオンを成す。

さらに学ぶべきは 
我々は民主主義側に 位置しているとの 思いであるが
「民主主義を守るが 民主主義を実行するつもりはない」国々が 
隣・近・遠国に 多数控えており
我が国が国交もあることを 知ることである。

したたかな 欧米諸国は 永年の修羅場で
この使い分けに長じ それらへの洞察に 遅れを取らないこと。

奇しくも 今日の6月18日 元法相河井克行 
東京高裁で 大規模買収事件で懲役3年の実刑判決
弁護人は即日控訴の意向表明。

独裁国でなら 
買収事件などは判例にもなく 「重大な規律違反」で
裁判なしの死刑の宣告と しかも即日実施。

他方 民主主義国で
今後 延々と続く裁判の 血税のムダ使い!
民主主義体制で 弁護士に稼がせ 被告人を養う
ムダとムリの繰り返し。

どちらがいいのか 逃げずに判断しよう。


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