皆さんの黙想のお役に  21/03/06







 皆さんの黙想のお役に立てないかなと思い投稿致します。
本のページにして7ページくらいのものですので、我慢して読んで下さい。

『私に啓示された福音 7(上)』より 
(著作権は解消済み)

イエズスが使徒に教えておられるものです。

 儀式を誇示しても、心の中で神を愛していなかったら、神の目にどんな価値があるでしょう?
神への敬愛で自らを無にすることなく、神が作られたものを愛することによって、神を賞賛し、
何よりも、人を愛するのでなかったら?人こそ、この世の創造における傑作ではありませんか?
イスラエルで起きた間違いが、分かりますか?一つの教えを二つにしたことから始まりました。
その後、魂の衰退によって、第二の部分を第一の部分からほとんど切り離しました。
まるで不要の枝と言わんばかりに。

 それは不要の枝ではありませんでした。そもそも、二本の枝でもありません。
それは、ただ一つの幹でした。その根本から、二つの愛の徳で飾られていました。
あの丘の上に生えている大きなイチジクの木をご覧なさい。自然に生えたものです。
地際から出た途端に二叉に分かれましたが、樹皮がくっつくほど一体化しています。
でも、それぞれの幹を中心に葉をつけ、この丘の村が『双子のイチジクの家』と
呼ばれるもとになりました。

そこで、二つの幹を離そうとしたら、実際には一本の木ですから、
斧や鋸を使わなければならないでしょう。さて、どうなります?
木は死んでしまうかもしれません。あるいは、斧や鋸の扱いがうまくて、
二本のうちの一本だけを切断できたとしたら、一本でけ救えたとしても、
もう一本は死ななければなりません。残った方も、生き伸びたとしても、
元気を失い、弱って、ほとんど実をつけなくなるでしょう。

 イスラエルでも同じことが起こりました。
本当はただ一つで、しっかりと結合しているものを、二つに切り離そうとしました。
完全なものに修正を加えようとしたのです。神の業、思い、言葉はことごとく完全です。
シナイの神が唯一の教えによって、至高なる神と隣人を愛するよう、人間に命じられたなら、
それらは別個に実践されるべき複数の教えではなく、唯一の教えであることは明らかです。

そして、わたしは、あなたたちをこの崇高な、何よりも偉大な完徳へと導かずにいられません。
それは霊とともに天へと上り、それのみが天において存続しますから、
わたしはどこまでも、魂に、霊における生活を求めます。愛を失えば死です。
神を失うことになるのですから。

わたしの話を聞きなさい。
ある日、金持ちの夫婦が訪ねて来て、これからずっとよろしくと頼んだとします。
『ご主人は歓迎しますが、奥さんは歓迎しません』と答えたとしたら、夫はきっとこう言でしょう、
『それはないでしょう。妻はわたしの肉ですから。
妻を歓迎してくださらないなら、泊めていただくわけにいきません。
あなたに宝を分けるつもりでしたが、全部持っておいとまします』と。

 神は愛に結ばれています。愛はまことに、深く愛し合う夫婦よりも親密な、聖霊の霊そのものです。
神ご自身が愛です。愛とは、神の最も顕著な特徴です。神のあらゆる属性の中で、愛は至上の原型です。
なぜなら、神のその他の属性はすべて、愛から発しているからです。愛が働かない力がありますか?
愛が教えない智があるでしょうか? 赦す愛がない慈悲がありますか? 
愛が支配しない義があるでしょうか? 神の属性であるすべてについて、同様に言うことができます。

 さて、この話を聞いたあなたたち、愛を持たない人が神を得られると思えますか? いいえ。
愛でない神を受け入れると思えますか? 愛は一つであり、創造主と被造物を抱擁します。
半分だけということはなく、創造主を受け入れるなら、他の半分、すなわち、隣人をも受け入れます。

 神は被造物の中におられます。彼は消すことのできない印をもって、彼らの中におられ、
父、伴侶、王としての権利を持っておられます。霊魂は神の王座、体は神の神殿です。
兄弟の一人を愛さず、軽蔑し、侮辱し、悲しませる人は、兄弟の家の主、兄弟の父、伴侶を軽視しています。
この偉大なる方は、すべてであり、兄弟の中におられ、すべての兄弟の中におられますから、当然です。
小さな者へ与えた侮辱は神への侮辱と見なされます。

すべてによって創造された一部、すなわち一人の人間への侮辱は、神への侮辱です。
だからこそ、わたしはあなたたちに、肉体面と精神面での慈悲の行いについて、教えました。
兄弟を失望させてはならないと教えました。
兄弟を裁いてはならない、兄弟を軽視し、拒んではならないと教えました。 
相手が善人であれ、悪人であれ、信仰者であれ、異教徒であれ、友人であれ、敵であれ、金持ちであれ、
貧乏人であれ、関係ありません。

 婚姻の床での受胎は、黄金の寝台であろうと、厩の藁の上であろうと、同じ行為によります。
そして高貴な胎内で形成される人間も乞食の胎内で形成される人間も変わりません。 
受胎、新しい生命が造られることは、この世のどこの場所においても、親の宗教が何であっても、
変わりません。すべての人間は、アベルとカインがエバの胎から生まれたように、生まれます。
受胎やこの世の男女の子らの誕生の成り立ちが平等であるように、天においても平等なことがあります。

胎児に吹き込まれる魂の創造です。動物ではなく人間になる魂が吹き込まれ、造られてから死ぬまで
その人に付き添い、存続して普遍的復活を待ち、復活した体に戻されて、
報いまたは罰を受けることになります。報いになるか罰になるかは、
この世の生活で何をしたかによります。

 愛は不公平だと思ってはなりません。また、イスラエルやキリストに属していない多くの人は、
たとえ彼らがそれぞれの宗教を本物と信じて従い、有徳な人であったとしても、
報いを拒まれていると、考えてはいけません。この世の終わりの後、愛以外の徳はありません。

つまり、正しく生きたすべての人間が創造主と一致します。イスラエル、キリスト教徒、カトリック、
異教徒、異邦人、それぞれの天国があるのではありません。天国は一つです。報いも一つです。
神、創造主、正しく生きた人間、その聖人の魂と体の美しさのゆえに、彼らに戻られる方、
彼は父と神の喜びとともに、ご自身を称えられるでしょう。主はただおひと方です。
イスラエルの主、カトリック教徒の主、それぞれの宗教の主が おられるのではありません。

 今、あなたがたに偉大な真実を明らかにしましょう。覚えておきなさい。
それを後に続く人たちに書き伝えなさい。真実を明らかにするために、
いつまでも聖霊を待って闇の数百年を過ごしてはなりません。よく聞きなさい。
 恐らく、『でも、この世の終わりに異教徒とまったく同じに扱われるのであれば、
聖なる宗教に属したとて、どんな報いがあるのだろうか』と、言いますか? 答えはこうです。
同じ報いがあります。―そして、それは真の正義ですー 
聖なる宗教に属していても、聖なる生活を送らなかった人が列福されないのと同じです。

有徳な異邦人は、自分の宗教が正しいと信じて、最上の徳に従って生きたならば、
最後に天国を得るでしょう。いつ? この世の終りには、死者の四つの住まいのうち、
二つだけが残ります。 つまり天国と地獄です。
そのとき、自由意志の木から良い実を取ったか、悪い実を取ったかによって、
二つの永遠の国のどちらかが与えられます。

 しかし、有徳な異教徒がその報いを得るまでに、なんと長くかかることか!・・・
そう思いませんか? そして、あらゆる驚嘆を伴って救済が起き、
福音が全世界に述べ伝えられた瞬間から、他の宗教で正しく生きながら、
真の信仰に入ることができなかった魂たちは、魂の浄化を期待されることになるでしょう。 
彼らは、この世の終わりまでリンボに住むことになります。 
真の神を信じながら、聖なる生き方ができなかった人は、長く煉獄で過ごすことになるでしょう。
ある人にとっては、この世の終りまで続くかもしれません。

でも、それぞれの場において、善を待ち望み、償いを果たした人は、全員が神の右手に座るでしょう。
邪悪な人は、出自に関係なく左に置かれ、恐ろしい地獄へ行くことになるでしょう。
救い主はすべての善い魂とともに、永遠の王国に入ります。」

「主よ、お許しください、よく分かりません。おっしゃることがとても難しくて・・・
少なくともわたしには・・・いつも、あなたは救い主で、あなたを信じる者は救われるとおっしゃいます。
すると、信じない人はどうなるのですか。
あなたを知らない人や、あなたより先に死んで行った人は---だって、世界はこんなに広いのですから!---
あなたのことを全く知らなかった人は、どうやって救われるでしょう?」とバルトロマイが尋ねる。

 「こう教えました。彼らが正しく生き、善い行いをし、
彼らが本物と信じる信仰に生きるならば、と」。「でも、彼らは救い主に頼らず---」。
「救い主は彼らのためにも苦しみます。バルトロマイ、人間としてのわたしの功徳が、
どんなに価値あるものになるか、考えませんか?」。

「主よ、常に神のそれより劣るでしょう。あなたがいつもそうであられたよりも」。
「あなたの答えは、一部正しく、一部誤りです。神の功徳は無限だとあなたは言います。
神においてはすべてが無限です。しかし、神によらない功徳はありません。
神は、ご自身の属性、徳です。神は、完全、無限、全能そのものです。
でも、徳を認めるためには、行動が必要です。努力して、本性を超えなければいけません。

たとえば、食べることは功徳ではありません。
けれども、食事の節約は、貧しい人を救うために真の犠牲を払うのであれば、徳になり得ます。
沈黙は徳ではありません。けれども、侮辱に反論する代わりに黙るのであれば、それは徳になります。
という具合です。さて、神は努力する必要がないことを知っていますね。彼は完全で無限ですから。
けれども、人間である神は、無限の神の本性から、限りある人間にへりくだることによって、
努力することができます。 彼のうちにおいて、人間の本性は欠けているのでも、比喩的なものでもなく、
実在しますが、それに打ち勝ちます。
あらゆる感覚、感情、受難と死の可能性に、自由意志で打ち勝つのです。

 死を愛する人はいません。とりわけ、それが苦痛を伴い、早過ぎ、不当なものであれば。
誰も死を愛しません。けれども、誰もが死ななければなりません。
ですから、死を迎えるすべての生き物を見るのと同じ平静さで、死を見なければなりません。
よろしい。わたしは、わたしの人間に死を愛させましょう。
そればかりではなく、人間のために死ねる命を選びます。 

このようにして、わたしは人間である神という状態で、神のままでいたならば得られなかった功徳を得ます。
そして、その無限の功徳によって、わたしは神としてばかりでなく、人間としても無限の力を得るでしょう。
なぜなら、その功徳が得られるのは、神の本性が人間の本性に加わるからであり、
わたしがそれにふさわしい愛と服従の徳によって自分を差し出すからであり、
わたしの父である神に受け入れていただくよう、わたしの心に、堅忍、正義、自制、賢慮の、
あらゆる徳を積むからです。わたしはすべての人のために自分を犠牲にします。

これこそ、無限の愛です。それは功徳を得られる犠牲です。犠牲が大きければ大きいほど、
功徳も増します。完全な犠牲に完全な功徳。最上の犠牲に最上の功徳。
それは、その犠牲者の聖なる意思の通りに用いられます。
父が、『おまえの望むようにしなさい!』とおっしゃるからです。
犠牲者は神と隣人とを、はかりしれないほど愛しています。

 教えましょう。最も貧しい人間でも、できる限りの犠牲で愛することができるなら、
最も豊かになり、兄弟たちに数えきれない恩恵をもたらすことができます。
パンのひとかけらもなく、一杯の水もなく、みすぼらしい服さえなかったとしても、助けることができます。
どうすれば? 兄弟のために祈り、苦しむことによって。 誰を? すべての人を。 方法は? 
たくさんあります。愛するならば、神のように行い、教え、許し、治めることができます。
人間である神のように贖うことができます。

「おお、主よ、わたしたちにその愛をいただけたら!」とヨハネがため息まじりに言う。
「与えられます。神はご自分をあなたたちに与えるのですから。
でも、あなたたちは、それを受け取って、ますます完全に実践しなければなりません。
あなたたちに起きることで、愛と離れたものはありません。物質的な面においても、精神的な面においても。 
すべては愛のために、愛を持って行われなければなりません。

あなたがたの行動や日々を、聖なるものにしなさい。 祈りに塩を、行動に光りを入れなさい。
光、味、聖別をもたらすのは愛です。
それがなければ、儀式は無価値、祈りは無駄、捧げ物は偽りです。まことに、あなたがたに言います。
貧しい人があなたがたに兄弟として返す笑顔は、これ見よがしに足元に投げ与える金銭よりも価値があります。
愛しなさい、そうすれば、神はいつも、あなたがたと共におられます。」

「その愛し方を教えてください、主よ」。
「二年間にわたって教えてきました。わたしがしたとおりにしなさい。
そうすれば、あなたがたは愛のうちにあり、愛はあなたがたのうちにあるでしょう。
そして、あなたがたは聖なる油、王冠の印を受け、
あなたがたが愛である神の使いであることが知られるでしょう。
この木陰で休みましょう。
草がよく茂っていて、木が暑さを和らげてくれます。
夕方になったら先へ進みましょう・・・」。