中村神父メール   21/12/20






六甲春秋31  初めの一歩:回顧と展望

 教会の庭にある樹木は 葉っぱが無くなってスケスケになり、ご近所の家が随分と見通せるようになった。

これまでの数か月、毎朝のように落ち葉を掻き集めてくださった方々の労苦が、
やっと終わりに近づいたのか。たとえ大の寒がりであっても、冬枯れも木枯らしも大歓迎したい。
不思議なことに春の胎動は着々と始まり、桜の枝にはもうツボミがぎっしり犇めいている。
みずみずしい新緑が陽に輝く時も決して遠くない。

私たちがあたふたしている間に 年の瀬が迫り、新しい年・主イエスの年である2022年を迎えることになる。
往く年・過ぎた一年は 新型コロナで大いに煩わされ、自粛ムードで行動が何かと制限されたのだろうか。
加齢のお蔭をこうむって、身辺整理に励んでいるのか。

過ぎ去った今年のスケジュール表を 一月から独り静かに振り返りながら、あれこれ思案が尽きない。
まさに閑人の特権なのか、東京や広島や下関に 遠慮なくガラ空きのバスや電車で出かけ、多くの人々と
楽しい出会いのひとときが持てた。

またニューヨークのオペラ座で実際に上演され 映画化された作品を見に、好んで国際松竹に出掛けて
本場のオペラを原語で堪能し、また喜楽館の落語にも足を運んだ。

日常生活では岡の上に聳える神戸大学のキャンパスをよく散歩し秋を満喫した。
普段はなるべく歩く事を優先しているが、時にバスや電車を利用して 人々の生態をじかに観察している。
今年は鳴かず飛ばずたっぷり時間があったので、曽野綾子や有吉佐和子の作品を読み直し、
また奥村一郎の著作に 初めて出会って共感するところが多く、
日本における祈り・求道の道やキリスト教の在り方について 問題意識を新たにした。

さらには、幸いにも旧約聖書の原文である ヘブライ語の朗読テキストがすべて揃ったので、
まず創世記と詩篇から始めて 毎日テープに耳を傾けている。

近年はどうしてか、正月という年の改まりを 厳粛に心新たに祝い寿ぐことが無くなってしまった、
残念なことに。多くの店は元旦の二日目から営業を始め、ゼニ勘定に忙しい。

松の内という言葉さえも廃れてしまったようだ。
来る年・新年への自分なりの抱負・希望を思いめぐらす時を もっと大切にしたいと思う。
しかしブッチャケタ話、自分が4月から何処で何をしているのか知らないまま、
新年の計・夢を思い描こうとしている。

たしかに場所でも職務でもなく、まさに自分の新たな意気込みや 決意が問われていると言えば、
たしかに正論ではあるが。主の年2022年の干支は寅年とか、
あえて猪突を繰り返し猛進することを是とするのか。

歳の重み・ままならなさが、自分の心に身体に 日々に加わるように感じる朝に夕べに、
私ならではの在り方・生き方を貫き、全うしたいものだ。

夜半にトイレに起きることは多いが、夢を見ることはきわめて少なくなった。
一富士 二タカ 三ナスビと古来から言われているが、その曰く因縁は知らないが、
今こそ大きなデッカイ初夢を見たいものだ。

ここに聖土曜日の典礼文を引用して、私の信仰や抱負の表明にかえよう。

「主イエズスキリストは 始めと終わり、アルファとオメガ。
時間も永遠も彼のもの、栄光と支配は彼のもの。栄光と支配は彼に、世々とこしえにアーメン」。

主の年2022年、
一方ならずお世話になるにちがいない皆々様に、主なる神の祝福と護りと導きを、心から祈り求めつつ。

合掌