中村神父メール   21/11/30


忘れ物を発見したので、送ります。どうぞ宜しく。




六甲春秋29  聖者と死者とを仰いで

 私たちは教会の典礼で、11月1日に諸聖人の日を祝い、翌日の2日に死者を祈念する。
しかし教会の公式の聖人は、その認定に長く厳しい審査が求められ、私たちにそれほど近く親しい
存在ではない。しかし死者ということならば、多くの場合は私たちと生活を共にして数多くの関りを
持った人々である。当然ながら、数々の欠点や歪みを持った普通人だった。
それだけに 私たちの哀惜の情もひとしおといえる。

珍しくもこの間は次兄を手伝って、数日にわたって長峰墓地で汗水を流した。
慣れない仕事で、今もって手首が利かず少し重い物を持つと取り落としそうになる。
この中村家の墓には、両親をはじめ姉と二人の妹も葬られている。あそこから下界の眺めは最高だが
横から太陽がまともに照り付け、多くの階段と落差があってほとんど一輪車は使えない。
膝をついたり屈んだり運んだり、普段は箸より重い物を持たない生活であるから、そぞろ老齢の悲哀を
味わった。しかし次兄は三歳上であるから、嫌でも頑張らざるを得ない。

しぶとく生え繁る雑草を何とか防ぐために、隣にはみ出す硬い植木を4本とも抜き取り、盛り上がった土を
はねて下地にコンクリートを打ち、その上に小石を敷き詰めることにした。
かなりの労働で私も何とか少し手伝ったが、二人でやると意外と捗る仕事もあり、私はもっぱら助手に
徹して道具を手渡したりするばかり。それでも、あれほど疲れ切ってしまったのだ。

それにつけても、家族の血の繋がりの深さに改めて驚き入った。
我が身を顧みて、父母から知らないうちに受けたシツケや物差しや人柄の強力さに気づき、
また姉妹と生活を共にしながら得た数々の思い出が新たに蘇り、実に貴重な恵みの時だった。
目前で黙々と働く次兄の姿も因縁の多さも、身内ならばこその想いが深められた。
生得のものとは、生まれながらに当人に備わったものを指すのだろうが、家族や友情という関りでは
遺伝も生得も区別できない。両親・兄弟姉妹・祖父母 あるいは恩師や友人はたとい既に亡くなって
久しくとも、関りがあった人々や世代に重・大な影響を与え続け、在世中よりもさらに活き活きと
活動しているのではないか。

最近になって、もう誰も管理しなくなった荒れ果てた個人墓地が増えていると聞く。
また中村家でも 誰が次にこの墓を世話するのかとなると、先行きは暗い。両親と深い関りがあり
面識があった者というと、実子やその配偶者、次いで孫たちに限られる。
しかし現実問題として、大して関りの無かった孫たちの世代に多くを期待できないのではと懸念する。

この度の墓地での労働を通じて、嫌でもいろいろ感じた事がある。
先ず自分としては、樹木葬や海や山また大地に還ることを優先する
(残念ながら、イエズス会は既に所定の場所を持っているが)。家の権勢や富裕を誇るかのような墓は、
まさに笑止千万である。むしろ生きて苦しみ迷う私たちのために、死んだ先人たちが今も働き努めている
事実を信じて認め、逝った死者との関わりや御縁を大切にしたい。

その意味では、永遠の安息に入るとか 永眠するとかの言葉そのものが不適切である。
まるで死者は眠るばかりで 何もすることが無く、現世で四苦八苦して生きる私たちとは何の縁もゆかりも
無い者と切り捨てているかのようだ。
むしろ彼らは死後の今こそ、神と共に上から内から働き努め、願い導いているのではあるまいか。
心を尽くして亡くなった先人たちと心を通わせ、
むしろ恩人として、人生の大先輩として彼らの励ましや諫めに聞き従いたいものだ。

合掌




六甲春秋 30 クリスマスと往く年・来る年。

 金モクセイの香りが 何処からともなく匂ってくる。何だか懐かしい気持ちになる。
そういえば 御影のかっての実家には、この樹が植わっていたのだ。

さて、六甲教会報が600号の記念すべき大台に達した。
図書館に大切に保存されたファイルを調べてみたところ、
1968年8月15日に、モラレス神父が発行準備号を出して呼びかけ、10月13日に創刊号がめでたく
陽の目を見、何と大阪司教・田口芳五郎から御言葉を頂いている。
1968年の王たるキリストの主日に、六甲教会が創立20周年を迎えたとあるから、
教会報の創刊自体がその実りの一つと考えられたのかもしれない。

それを読むにつけ、若々しい熱意や創意に打たれる。
教会がそのころ直接に取り組んでいた活動は数多く、何とかしてイエスの福音を多くの人々と
分かち合おうという熱誠やフンパツが溢れていた。

同じ創刊号に、大変にお世話になった大恩人・伊庭尚子さんが9月6日に帰天されたとの
知らせが載っていた。教会報の創刊以来、2021年の今に至るまで 早や53年の年月が流れ去った。
当時は幼く聞き分けの無い児童も若者も今は立派に成長して、タクマシイ成人として阪神間は
いわずもがな、日本各地で大いに活躍していることだろう。

ところで六甲教会の創立以来、何人の主任司祭が交代していったのか御存知だろうか。
ドイツ人のブラウン神父から始まって、ベルギー人のペーテルズ、薄田、ドイツ人の武庫,
スペイン人のペニュエラ、アメリカ人のオマーリ、桜井、松村、アルゼンチン人のセゴヴィア神父に
至るまで 次々とバトンは受け渡され、既に天国の凱旋を祝っている先輩たちも多い。

その間に何十人の助任司祭の惜しみのない奉仕があったことか。
この教会の諸活動に財産・時間・アイデア・若さの限りを尽くして喜んで奉仕してくださった方々の
お蔭で、今の六甲教会が在ることを忘れてはならない。

しかし司祭その人は誰であれ、いつも本質的には流れ者、決して永く留まる者ではない。
逝っては再び還り来ない者、フツツカな従僕にすぎず、事態を掌握し決定する中心人物ではない。
主イエスこそ独り、今日も明日も変わらぬ主権者であり指導者であり続ける。 

 教会の創立から73年余りが過ぎ去り、また教会報も53年を経た。私たちの身の回りの生活、人間模様、
仕組みも大きく様変わりした。好む好まざるにかかわらず、人世の裏表を少しは垣間見たかもしれない。

また私自身も年寄り世代に入り、お爺さんやお婆さんが周りにすっかり多くなった。
しかしこの間、クリスマスは必ず巡ってきた。私たちはそれぞれきっと多様な想いでイエスの誕生を
過ごし、お迎えしたことだろう。

私事ではあるが、六甲の高校3年間、学校でクリスマスの聖劇を見るのが大きな喜びだった。
演技力のあるツブ選りの生徒によるものだけに、見事だった。
終わると、荘厳ミサがラテン語であったが、半分ボーとして寝ていたようだ。真のお目あては、
各教室に分れて始発電車が動き出すまで、石炭ストーブを囲んでブラザー手製のクッキーを
食べることだった。

イエズス会の修練院に入ってからは、山から苔を取ってきて馬小屋を作った。
毎朝水をかけていたが、下のタタミを腐らせてしまった。上石神井の哲学・神学期では、
にわか仕立ての聖歌隊が生まれ、シスター方の修道院や病院に押しかけ大歓迎された。

留学先のドイツでは家庭での祝祭が徹底しているため、かえって孤独の時を味わった。
ローマでの3年間、巡礼に励んだものだ。アイデアを凝らした各教会の大規模な馬小屋は、
なかなかの見ものだった。
アメリカのボストンでは寒く暗い早朝、グレートハンドのバス駅に急ぐ途中で、
五、六人の夜の女たちがドラム缶の焚き火を囲んでけたたましく騒いでいた。

益田の5年間と徳山・下松の3年間は幼稚園の園長として、
園児たちの聖劇を、子供たちのめざましい成長ぶりを大喜びで見物した。

私たちは様々な想い思い出のうちに クリスマスを送り迎えて、年齢を重ねていく。
去年とは異なる人々に囲まれ、違う状況に戸惑い、分からない先行きへ希望や不安を抱きながら。
「恐れるな、見よ、全ての民に与えられる大きな喜びを。今日ダビドの町に、
私たちのために救い主が生まれた」。

この救いの事実に 私たちは必ず巻き込まれ、関りを持たされているのだ。

合掌