中村神父メール   21/10/19


10月16日に、三好榮之助さんの葬儀・告別式がありました。  
私の代父でしたから、説教を引き受けました。娘さんや息子さんと
式前に話す機会があり、彼の生涯が大いに照らされました。
六甲学院の会計係として、脚を引きずりながら働く姿を ご記憶かもしれません。
雑文を送らせて頂きます、随分前に書き終えたものですが すっかり忘れていました。

六甲春秋  28、27





六甲春秋 28  マルタとマリア

 9月に入ってかなり過ごし易くなった、雨がチョクチョク降るからなのだろう。
熱帯夜ともそろそろオサラバ。しかし、それに伴って落ち葉の煩いが始まった。
みどりの葉が盛り上がるように茂っている中で、ところどころ黄色に変わった葉っぱが見られる。
これから数か月をかけて、静かに休みなく落ち葉が舞い落ち、地上に降り敷くことになる。
今朝もまた懸命にホウキで、取り集めてくださる人々が居られる、有難いことだ。

 さて10月4日の朝ミサでは、ルカ10章のマルタとマリアの出来事・福音が読まれる。
イエスはマルタがどうすることを望んでいるのか、マルタはどう応えたのか。
平凡なありきたりの台所仕事を止めて、マリアのようにイエスの足元で教えを聞く事を選んだのか、
それとも? イエスの真意をめぐって多くの異なる解釈があり、今日まで多くの議論が続けられてきた。
生まれて初めて福音書を読んだ或る学生の感想はかって、これではマルタが可哀そうだと述べた。
或る修練長は、活動にたいする観想の優位性が言われていると語った。さて、あなたはどう読み解くのか。

 以下に私ならではの捉え方を紹介しよう。
先ずこれがルカの編集に依れば、何と10章以上を費やす旅の段落の初めに起こったことに注目したい。
往けば再び還り来ない、イエスの旅の最初の出来事である。
彼をもてなす食事を供するのも、イエスの教えに耳を傾けるのも今度限り。
「イエスは天に上げられる日が近づいたので、
エルサレムへと歩み行こう・ポレウオマイと、顔を引き締めた」。

次に、イエスの言葉・語りかけを詳しく調べてみよう。
マルタへの呼びかけについて、ルカ福音書の中でイエスに二回も名前を呼ばれた人は、
ペトロとマルタしかいない。
いずれもイエスの溢れるような愛や哀しさが表れ、いずれの場合も単なる叱責や非難ではない。
しかしイエスがどうしても分からせ糺したかった点は、マルタの思い煩う心である。
自分をマリアと見比べて、自分だけが損な目をし、務めを取り替えたいとの願いは、
まさに思い煩い・我がままそのもの。

必要なことはただヒトエに、旅するイエスを心からもてなすこと。
マリアが彼女なりに良い方を選んだように、マルタ・あなたも良い方を選んだ、
自分だけが貧乏くじを引いたと卑下したり、無理にも手伝わせようと八つ当たりせず、
喜び勇んで台所に戻り調理に腕をふるってもらいたい、というのがイエスの本意では。

さらにまた東洋的な修行の伝統から言えば、
台所で忙しく立ち働くことは師匠の教えを脚下で聞き学ぶことに劣るとは、決して言えない。
「必要な事はただ一つ」と、
「マリアは良い方を選んだ」というイエスの言葉をどのように解釈するのか、
マリアへの称賛なのか、むしろマルタへの謎かけなのか、意味合いがすっかり変わってしまう。
イエスの語りかけを聞いて、二人の姉妹はどのように応えたのか。

福音書は聞き手のその後を書いていないが、通り一編の解釈や公式見解を越えて、
自らの捉え方を大いに競い合ってもよいのでは。
私に託され私の選びに委ねられた「良いものはとは」何か、
今ここで私が行える「必要なただひとつ」とは何か。
イエスの光・照らしを是非とも頂きたい。

ところで日々、たいして映えのしないオサンドンについて、女性群から多くの苦情や不平を聞くが、
これほど大切な掛け替えのない聖務も 他にあまり無いのでは、誰が担うかを大いに工夫したとしても。
今日も明日も旅してゆくイエスに付き従い、私もまた旅する身であることを弁えたい。  
合掌




六甲春秋 27  イエスの母・マリア

 何だかヘンテコリンな天気で、参ってしまう。この四日ほど険悪で晴れない空模様だ。
今どき梅雨というのも奇妙だが、被害がほとんど沖縄から北海道にまで及び、
人命や家屋に甚大な被害をもたらしている。ところによっては年間雨量の半分近くが降って河川が溢れ、
土砂災害が相次ぎ、各地の悲報がやまない。

携帯電話にも連日のように、けたたましい警報が響き緊急避難の指令が出される。
耳慣れない言葉であるが、「線状降雨帯」とはいったい何なのか、どうして居座るのか、
過去に例が無いのかどうもピンとこない。

 少し時期はずれかもしれないが、マリア崇敬について書いてみよう。
何かの機会に私たちがプロテスタントの教会に入ると、中央に大きな教壇(祭壇ではない)が鎮座し、
堂内に一切の立像や装飾物が無いスッキリ、またガランとした印象を受ける。
イエスのみによる救いの恵みに注目するため、マリアも含めて聖人たちによる、
功徳や代願や執り成しへの寄り縋りを断つために他ならない。
確かにすべての人(マリアも含めて)は、ただイエスの恵み・十字架の贖いによってのみ救われ、
この信仰を告白する者がキリスト者である。

しかし時代や民族によっては極端に走り、ただマリアにひたすら熱心に縋り付きさえすれば救われる、
マリアのみに専用で別個の救いの道・入口があるかのように夢想するまでに至った。
教会も迎合して、信心の暴走や逸脱を断固としてただし止めなかったきらいがある。

 新約聖書はマリアについて何を語り、何を教えているのか。
ルカの一章と二章に、マリアの神への信仰が具体的に解き明かされる。
彼女はガブリエルの言葉に畏れ入り、どうしてそんなことがと問いただし男を知らないと言う。
しかし至と高き者の力に覆われて聖なる神の子を産む母の召命を、
主のハシタメとして御言葉通りに成りますようにと勇ましく引き受ける。

またエリザベットは、主の語ったことが必ず成就すると信じた マリアの幸いを称える。
この後マリアは、イエスによって救われた者の代表者として 主なる神を崇め称え、
卑しい召使を顧みて 大事を為された神を賛美する。
しかしシメオンからは、ツルギで胸を刺し貫かれる時の訪れが預言される。
また12歳になったイエスの不可解な言行を前に、マリアは取り乱し心配して探し回った次第を訴える。

この二章に、二回も繰り返される言葉
「母マリアは これらのことをみな心にとめ思いめぐらしていた」に、途方に暮れる母の姿も、
み旨に沿おうとする呻吟も露になる。

 マルコ、マタイ、ルカが共有する伝承は、イエスの母マリアを貶めるものなのだろうか。
むしろ血の繋がりによる母子関係を、「神のみ旨を行う」という
もっと本来的な、マリアの信仰の原点を言い表す最上級の誉め言葉ではないか。

さらにヨハネ福音書のみが記す、カナにおけるマリアの執り成しがある。
母との間柄を断つかのように響き、イエスの時はまだ来ていないのに、
「彼が言うことは何であれ行え」とマリアは僕たちに勧める。
マリアは遂に十字架のもとに佇むが、イエスは「見よ、これがあなたの子です」と
先ずヨハネを母に委託する。

この言葉によるのか、聖霊が下るまでの間に「使徒たちは皆、婦人たち、特にイエスの母マリア、
およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」と使徒言行録は記している。

マリアこそは、イエスの第一の弟子、最もイエスの身近に十字架にまで寄り添い、
イエスの福音を深く理解し、その意味では全キリスト者の唯一無比のお手本ではあるまいか。