中村神父メール   21/06/28


第15期から、また惜しい人を お見送りしました。

確かに何時お迎えがあっても、早すぎだと 神様に 私は抗議はできません。
安らかに逝くことが出来れば喜ばしい限り。ただお任せするばかりですが、
それまで与えられた日々を 喜ばしくイサマシク 生活したいものですね。

また雑文を送らせていただきます。

この間は久しぶりに、谷口神父と電話で話しました。
数多くの逆風のなか、希望を持って頑張っているようです。

合掌





六甲春秋25 主よ、私たちに祈ることを教えてください。

 静かな雨音を聞きながら パソコンに向かっている。
もう幾度も、熱い夏日を経験したが、今年はけっこうキマジメな梅雨を迎えているようだ。
桜の葉に落ちかかる音が耳にやさしい。

ところで最近なぜか、祈りとは何だろう、どう祈ればよいのかとよく問われる、
自他ともに祈れないという悩みを 多くの人が抱えているからだろう。
私たちカトリック者は、決まった祈りを数多く持っている
(公教会祈祷書には、何と100ほどの祈りが並んでいた)
けれども、別に決まった祈りを使う義務があるわけではない。
また口祷の祈り以外にも、各自の自由な黙想や念祷が いつも勧められてはいるが。

しかしイエス自身は どうだったのか、どのように祈られたのか。
マタイやルカが記す「主の祈り」を中心にすえて、彼の姿や心を尋ねてみよう。 
驚くことにイエスは、何よりも祈りの人であった。
彼は好んで夜を徹して、懸命に、ひたすら、いつも祈った。その延長線上に、主の祈りがある。
ルカは、祈るイエスに絶えず注目し、また自ら祈りの教えや勧めを多く書き記している。
また主の祈りは 弟子たちの求めに応えて、自ら手ほどきした点を強調している。

イエス自らが祈り、イエス自らが弟子たちに教えたこの祈りこそ、まさに祈りの中の祈り、
あらゆる祈りの根源であり、またイエスの生涯と福音と活動の総括・眼目である。
また私たちキリスト者の目印、行動の指針でもある。

それゆえに いつも先ず、イエスその人に 祈ることを教えてくださるよう求めよう、
いつもズブの素人や初心者として。
また祈りへの求めは必ず「私」ではなく、「私たち」というつながり・交わり・連帯の中でなされる
命のイトナミである。わたし個人の敬虔や信心ではない。
換言すれば、自分が天国に行くためや 永遠の救いにパスするために 唱えるのではない。
むしろイエスの心に共に与り、神の救いの御業が私たち皆にあまねく成就するように
願い求めるのである。

ここで少し構造を考えてみよう。先ず語りかけの相手として、「天に居られる私たちの父」、
または「アッバ・父」である。アッバは、幼児が父親に呼びかける時の言葉といわれるので、
むしろ「父ちゃん」などの親しい家族間の呼びかけである。

ルカの福音書ではイエスの祈りの冒頭にいつも現れるが、
旧約では神への呼びかけとしては全く異例である。
父である神に対する、イエスの独自で親密な間柄・心情があらわになる。
その意味では、各祈りの願いの前に、アッバ・父よという呼びかけを繰り返すことは、
イエスの心情や信頼の念に叶うのかもしれない。

主の祈りは二部構成になっている。前半部では、ひたすらあなたの名が尊ばれ・あなたの国が来たり・
あなたのみ旨が成就するように願う。
主の権能・権勢が一切のトドコオリやサマタゲなく為されますように。
神のわざ(名、国、み旨)に与り、その全き成就を祈り求めるところに、
子イエス(また子である私たち)の父である神への信頼・賛美が込められている。

その後半部は、私たちの飢えや罪や弱さから解き放たれるようにとの 切なる願い求めである。
兄弟であるイエスは「私たち」の一員となり、私たちは 心を合わせて、日々のパンを罪の許しを解放を、
乞い求める。

後にすぐ続く教えで ルカは、ヘコタレヅに厚かましく叫び続けるように勧める。
またマタイは、互いに赦し合うことを特に求める。

神が幾度でも際限なく赦してくださるように、私たちが互いに赦し合うこと、
ここに主の祈りを唱える実り・眼目を置いている。

合掌