中村神父メール   21/06/01


お元気ですか。 5月24日に第一回目のワクチンを 近くの開業医に打ってもらいました。
筋肉注射は余りに簡単で、拍子抜けする思いでした。
別に際立った副作用も無く、三週間後に、第二回目をうけます。
別に長生きしようとは思いませんが、周りの人々は安心するようです。

不要不急は俺様が決める事、人様があれこれ制限することではありません。自由自在に生きています。

この日曜日には、住吉川を散歩しました。 岡本駅から大曲りで川筋を海まで歩きましたが、
大勢の親子ずれが 川遊びを楽しんでいました。 最近はアユが遡るとか、
上流は水量も多く 何と五つほど 家族テントをはっていました。

阪神の御影まで また歩きましたが、これが結構疲れました。 どうぞ、お達者で。
合掌





六甲春秋24 聖霊、来て下さい

 うっとおしい梅雨が、いつ始まるのか気になる。先日は夏の暑さに備えて、衣替えを行った。
随分とお世話になった厚い冬用のオーバや毛糸のセーターをしまい込み、
明るい色のヅボンや薄手のシャツや靴下を取り出した。
入浴時に使った重いガウンは、洗濯する必要があった。
入れ替えを要する衣類が何と多いことか。いずれ入梅、雨が降り続く蒸し暑い長雨、
間もなく酷暑の日々、きっと眠れない辛いと、今年も不平をこぼすことだろう。

 5月23日には聖霊降臨の大祝日、残念ながら緊急事態の発令で 公やけに盛大な祝いは出来ない。
それでも確実に言えることは、私たちが聖霊の時代を生きているという事実である。

しかし問題は、私たちの信仰にどのような関りがあるのか、
また今の時代に聖霊はどのように働いているのかという疑問である。先ずパウロの祈りが心に浮かぶ。
「主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わり」をコリントの信徒のために懇願するが、
私たちのミサ聖祭も必ずこの祝祷ではじまる。

ここで聖霊には 交わりが帰され、恵みと愛があるところに 必ず伴い溢れる心の通い合いである。
神の先立つ恵みと愛が無いところに 交わりは無い。

うわべの薄っぺらな交わりは、単なるお作法や虚礼となるばかり。
父なる神と主イエスの間に絶えず交わされる イノチの交流、愛と恵みのカヨイ合いこそ聖霊なのだ。
キリスト者がこの交わりを信じ受け入れ宣言することによって、つまり洗礼によって、
私たちは恐れ多くも神の霊が宿る聖霊の生きた神殿となる。

その意味では、感謝の祭儀でパンはキリストの身体に、ブドウ酒はキリストの血に変わるが、
もっと驚くべき事・強調すべき聖変化は、
相互いに私たちが聖霊の生きた神殿とされている恵みの現実・信仰の神秘を共にほめ称えることである。

 パウロの聖霊理解で 次に注目されるのは、聖霊の恵み・カリスマの教えである。
全てのキリスト者は例外なく、それぞれ独自の賜物・カリスマを戴いている。
それはひとえに、キリストの体である救いの御業を実現するために、教会の宣教や司牧のためである。

もっと具体的にいえば、それは私たち独自の人となり・個性を通じて、また神が与え認め結ばれた
御縁というシガラミ・人間関係の網目を通して、外ならぬ私に託され私だけが果たせる役割である。
たしかに 私は逃げも隠れも出来るが、余人をもっては代え難いものである。
別の言葉で言い換えれば、私のみに託された召命ヴォケーションVocationである。
この語の従来の使い方では、余りに狭く特殊な生き方や選びに もっぱら司祭や修道者に限られていた。
しかし召命は洗礼を受けた全キリスト者が、生涯をかけて探し求め生き抜くカリスマ聖霊の道である。

パウロの聖霊理解を私なりに さらに実践的に言い表すとすれば、
夫と妻が「わたしたち」として、共に生き共に老いることを共有するならば。
キリスト者とイスラム教徒が「わたしたち」として、地球環境の保全に協力するならば。
先進国と後発国が「わたしたち」として、貧困と暴力と不正に立ち向かうならば。
固有の伝統・歴史・文化を持ちながらも、また財力・権力や知識・経験の大きな隔たりを抱えながらも、
「わたしたち」として歩み寄り、仲間・同志として対話し協力するならば、
それこそまさに聖霊の働きである。

私とあなたが ぶつかり合い、対立や不和が生み出される時に、
「わたしたち」という交わりに聖霊に立ち返れますように。  
聖霊よ、来てください。   

合掌