中村神父メール   21/02/23


二月に入って、目まぐるしく寒と暖とがいれかわります。  お元気ですか。
この間は、中山君に会いました。 病気を抱えながらも、 健気に前向きに生きている様子でした。
我々15期生、何が起こっても 不思議ではありません。
残りの日々をフルに活かし、 思い残しや遣り残しが無いように 努めたいものですね。






六甲春秋 21  春の花:咲く時、散る時

日本文学で もてはやされ人々の心に直ぐに思い浮かぶのは、梅の花なのか 桜の花なのか。
しかし花といえばサクラであり、すこし大げさに言えば、誰もが浮足立つ思いで
桜前線の北上を待ちわびる。空模様を気遣いながら サクラの風情を思い描き、
一分咲きから満開の狂乱まで、さらに花吹雪が地面に降り敷き あるいはミナモに流れ去るまで、
ほんの短い期間ではあるが 私たちの眼を引き付けてやまない。

桜は何も日本にだけ生える植物ではなく、私はドイツでもイタリヤでもアメリカでもお目にかかった。
サクランボの美味しい実がなるため 家庭でも育てられているが、その花を愛でること、
ましてや 人の世・イノチの移ろい易さと儚さを重ねて 花を愛でる心情などは無い。

桜の花は 今年も何心無く咲き乱れ、しおれて散り失せる。それは「時」の移り変わり、
季節の単なる営みと解されるばかり。

しかしながら聖書の民イスラエルは、万事・万象に神の計らいと関与を汲み取った。
それゆえ人間を取り巻く「時」の転変の中に、神の直接の配剤や意図を読み取り、
イサギヨク引き受けた。

コヘレトは、天が下のすべての事には季節があり、すべての業には時があると述べ、
人生に避け難くめぐりくる 対立的な時=人間の誕生と死去、泣くと笑う、探すと失う、保つと捨てる、
黙ると語る、愛すると憎む、戦闘と和睦などなどの「時」の交代に、一喜一憂しながらも
人間の考・慮を越える神の摂理を受け入れ、応諾する事こそ人の分際であり、
時の変転を弁え応えるように励ます。こうして「神の為さることは、すべて時にかなって美しい」と
結論し、自らの信仰告白にかえている。

また詩篇31の15節は、無慈悲な敵から苦しめられ 命を狙われながらも、神に大いなる信頼をもって
「私の時は、あなたの御手の中にあります」と祈るが、イエスの十字架上の一つの言葉
(ルカ福音書)は、「主よ、わが魂をあなたの御手に委ねます」と同じ詩篇の5節を使っている。
私の魂とは、神が与える時の推移や交代によって織り成されたもの、と考えているのだろうか。

イエスは 宣教の初めに、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と
宣言する。イエスの存在・イエスの活動こそ、神の支配の何よりの成就であると信じ、
彼がもたらす救い・恵みの時を、心から信じて受け入れるようにと招いている。

さらにヨハネ福音書にとって イエスの時とは、天に上げられ御父の懐に帰る栄光の時であり、
同時に十字架に上げられる苦難の時でもあり、こうして全ての民が永遠の生命・救いに与る時であった。

前回のNHKの大河ドラマ「麒麟がゆく」は 明智光秀が主人公であり、娘の結婚を喜ぶ祝う
父親の一場面があった。しかし大河ドラマの主人公として、細川ガラシアの登場を、
待ちかねている人々が大勢いるそうだ。彼らの願いが いつ叶うのかは知らないが、
明智光秀の娘として また細川忠興の妻として、信長から秀吉へさらに家康へと血なまぐさい
権力闘争に明け暮れた時代、彼女は動乱のチマタで求道し 受洗した比類のない人物であった。
キリシタンとしての信仰をひたむきに歩み、38歳でイサギヨク死を迎えた 勇ましい生きざまと
見事な死にざまを想う、咲き匂い散り急ぐサクラを 今年も愛でながら。

 散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

 中村健三 合掌