中村神父メール 21/02/06
お元気ですか。
この間は 広島の地御前のシスターたちの修道院で、自分の黙想を一週間余り行いました。
昼食を辞退したお蔭で、毎日のように二、三時間は周りを歩きました。
もちろん昼食は好きなものを食べ、宮島をいろいろの角度から眺め、海辺の歩きも満喫しました。
3日の夕方に教会に戻りました。
緊急事態ということですが、私にはほとんど緊迫感もなく、自由自在に生きています。
二十回目となる雑文をお送りします。
当事者である方々には余りに味の薄い、もの足りない内容ですが。
| 六甲春秋 20 おきみやげ(高校時代の思い出) 風が実に厳しく冷たい。教会の木々がすっかり丸坊主になった。 毎朝の落ち葉掻きに、修行として多くの方々が励んでくださった、ご苦労様でした。 しかし春遠からず。何と細枝を見直すと、小さなツボミがみっしり付いているではないか。 大自然は春の出番を待ちわび、着々と備えている。一番乗りは、水仙なのか梅なのか。 しかし私は寒風に降参して、もっぱら部屋の中で読書に明け暮れている。 本棚に古臭い装丁の本を見つけ、開いてみると六甲学院の卒業アルバムではないか。 ページをくりながら、すっかりタイムスリップしてしまった。 その見開きには、武宮隼人神父が墨で「無一物」と書いてくれた。 彼はほとんど素人であったが 初代校長に任命され、1938年に六甲学院が創立された。 開校の当初に未曾有の水害に見舞われ、校舎の中に土砂が流れ込み甚大な被害を被った。 制服は海軍士官の軍服をモデルに、丸刈りの坊主頭に制帽をかぶり風呂敷を小脇に抱える姿であった。 夏冬を問わず上半身裸で中間体操が行われ、また短パン・裸足で便所掃除の当番が回ってきた。 朝礼時の校長の訓話は 時に一時間以上に及び、生徒が途中で倒れることも稀ではなかった。 訓育は厳しく、殴る・校庭を十周する・正解を300回書くなどの体罰も珍しくなかった。 六甲山を一周する60キロ近い強歩会は中1から高までの全校生が参加し、 各所で母親たちの手厚い声援を受け、着順でも記録でもなく皆の完走が重視された。 クリスマスには、真夜中12時からのミサ前に聖劇が演じられ、芸達者の生徒たちが熱演した。 ミサ後は各教室で石炭ストーブを囲んで クッキーや熱いココアのもてなしがあり、 電車の始発まで楽しく過ごした。 編入した高@の時から、弁当を食べながらクノール神父の乱雑を極めた部屋で 公教要理の話を聞き、二年余り後に洗礼をうけた。 高3の夏休に三泊四日の黙想会が売布で開かれ、司祭になることを決めた。 イエズス会の会員は誰も何も言わなかったが、どれほど内心で喜ばれたことだろう。 その当時、六甲学院の信者は下校時に好んで教会に寄り道して、聖堂訪問するのが常だった。 またマリア会という信心グループが盛んで、土曜日の朝は学校の聖堂でミサがあり、 聖母月の5月には、屋外の小聖堂でロザリオの祈りもあった。 私は附属中学からの編入で(総勢3人)、あまりの変化に戸惑いなじめぬことも多かった。 同級生には、平均点が92点という怪物が二人もいた。高2になって成績順のクラス編成になり、 一学期はA組だったが二学期にはB組に自分独りだけ落とされた。附属中では幾何という学科はなく、 試験の前晩には徹夜で頑張ったが、結果はたしか7点で丸暗記は通じなかった。 山岳部に入り多くの友人に恵まれた。 11日間の立山合宿に備えて、重い砂袋を担いで月一の訓練があった。 また真っ暗闇の中で夜間登山もあり、また体育祭の当日に校舎の屋上からザイルを使って 派手に舞い降りる部員もいた。どういうわけか、当時は数多くの仇名が大手をふるっていた。 一つのヨスガ・覚えとして挙げておこう。 七面鳥、赤鬼、坊主、ホラ、スカタン、子ガンモ、パンツなどなど。 わずか3年間の高校時代の思い出であるが、人と人との何でもない関り、ありきたりの出来事も、 計り難い影響を生涯に及ぼすことになる。 そういう意味では、今は亡き先輩からも生きて働く同輩からも 多くの重たい置き土産を戴いて、 私がいまここに在り、このように行い考えているのだ。 武宮神父の置き土産の一つとして、 私は10分前に現場に赴き、定刻に始め定刻に終わることを旨としている。 高校生、まさに畏るべし。 中村健三 合掌 |
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