中村神父メール   20/10/27


21日の10時から長峰墓地で、山岳部主催で 阪上先生の追悼式があり、
大変にお世話になった方なので、喜び勇んで司式しました。
15期生は私だけで、 いつのまにか最長老でした。

その後は独りで、 二時間ほど 両親や二人の妹が入っている 墓地の草取りに励みました。
小さな二区画ですが、なかなかの重労働でしたが 眺めは最高。
しかし足腰に置き土産が何日間も残り、 いやでも 年齢を感じざるを得ません。

どうぞ、お達者で。





六甲春秋 17 キリスト者の一致と和解

 コロナ禍の中で一つの大きな収穫は、毎週の月曜日・朝7時から8時半まで
三ノ宮のプロテスタント教会で開かれている 朝祷会に喜び勇んで参加している事である。
キリストを信じる兄弟姉妹が 教派を越えて行う礼拝と賛美と朝食の集いである、
東京でも広島でも一年に一回というタナバタ行事としては経験済みではあったが。
互いに教派のシガラミを越えて、老若男女や信徒・教職者のカキネを取っ払って、
共にキリスト者としての原点に立ち返って 親しく祈り分かち合う。

 たしかに欧米の諸国では、カトリックとプロテスタントが 血で血を洗う争闘に明け暮れた
長い痛ましい歴史がある。しかし幸いにも、日本では事情は大いに異なる。
自分自身も含め多くの場合は、両者の対峙や対決なしにキリスト者となった。
近所にたまたま新教の教会があったり、近くで通ったのが旧教のミッション校だったり、
親しく関わった先生が 神父さんだったり牧師さんだったりの理由で、
教派が決まるのが 普通の道かとおもわれる。

もちろん例外的には、大学時代の煩悶や思索によって 決断した場合もあろう。
また外国の宣教師たちが、苦い排他意識を持っていたかもしれない。

 我が家では なぜか子供たちは 皆バルナバ病院で生まれ、
また私は 一年ばかりプロテスタントの幼稚園に通った。御影の神大付属に小中と通い、
高校は イエズス会が経営する六甲学院に編入した。祖父も父も関西学院を卒業し、
姉はプロテスタントで、教団の牧師さんと結婚し、また私の父の葬儀は彼が司式した。
彼の任地である浜坂を訪問し 教会に寝泊まりもした。

 また神学生の時に 神出の養護施設で開かれた 一か月のエクメニカルキャンプに参加し、
種々の教派の若者と一緒に汗を流して働いた。
 
 教会司牧に転戦してからも 益田では3人の牧師さんたちと 月一で持ち回りの集まりがあった。
また下関の長府教会の5年間では、七、八人の互いに教派を異にする牧師さんたちと
毎月一回、親しく楽しい集会があり、大いに啓発された。
 
 またテゼーのブラザー・ギランが毎年、下関に来た折に、
各教会は 持ち回りで祈りの集まりを開いて 一緒に歓迎した。
たしかに 私は他教派の方々と 多様なご縁に結ばれてきたが、おそらく皆さんの歩みにも
きっと種々の関わりがあったにちがいない。
 
 朝祷会では「奨励」と名づけて、阪神間の諸教会の牧師や信徒を呼び招いて
聖書教話を戴いているが、彼らの誠実で懸命な献身を聞くにつけ頭が下がる。
日本の人々を イエスキリストの福音・救いに与らせようと、
どれほどの犠牲を 長年にわたって払って来られたことか。
 
 しかしながら、人口に占めるキリスト者は まだ1パーセントに満たない。
日本の精神風土や宗教界に、キリスト教は 今もって地歩も市民権も持っていないようだ。
キリスト教会内の抗争・敵対・分裂もその一因かもしれない。

 全キリスト者は イエスの切なる祈り・悲願に耳を傾け、
自分なりの持ち場で 大いに努め働き願おうではないか。

「父よ、私たちが一つであるように 彼らも完全に一つになる事です。
それは あなたが 私を遣わし私を愛されたことを、世が信じるためです。」     

中村健三  合掌