中村神父メール   20/09/23


お元気ですか。
3蜜神話に腹を立てています。中でもマスク信仰に対して。

自粛の名のもとに、自ら好き好んで萎縮し 世間一般の同調して外出も控えるとか、愚かなこと。
不要であるか不急であるかを 決めるのはただ俺様のこと。 
長生きしても碌なことがない、生きていても 何の意味も値打ちもないと豪語していた者が、
コロナでは死にたくないなどと言って 家に閉じこもっているのは見苦しいかぎり。

コロナの終息や 患者数がゼロになる日を 夢見るのではなく、むしろ真剣に共存を考えるべきだと思いますが。
風邪やインフルとおなじように。 年寄りは早々に退場し、若い人たちに後を任せては。

幸いな秋風を喜び祝いながら、一文を書きお送りします。
どうぞ、お達者で。





六甲春秋 16 季節の移りかわり

先週は大げさな台風予想・特別警報が ものの見事にハズレ、
日本列島の全域に 恵みの雨がもたらされた。
その日を境に、秋の訪れが身近に感じられるようになった。

もう何十年前になるのか、私はサンクト・クララ大学に滞在したことがあった。
二、三日の間は好天気を喜び称えていたが、来る日も来る日も お天気続きで
かえって身体の調子が狂ってしまい、雨風や曇り日を 待ちわびるようにもなったものだ。

日本には有難いことに、四つの季節が画然とめぐり訪れる。
汗まみれになって猛暑に耐えていた日々が、今では懐かしいほどだ。
朝夕と日中の気温格差が大きくなり、吹き抜ける風に思わず 木枯らし厳しさを思い出した。

今まで 大きな木陰で教会の庭を覆い包んでくれた桜の木は、
もう黄色の朽ち葉が 日毎に増えて散るようにもなった。
これからの4か月余り、落ち葉掻きに 励んでくださる方々の忍耐が大いに試される。

日本的な心情や「もののあわれ」といった情操や情念からいえば、時節の移り変わりの中、
花鳥風月のたたずまいに じかに感応することなしには、人生の歩みの重さも、生きる喜びも
哀歓の情も乏しくなるのではないか。

日本人がキリスト者になるとは 何を意味するのか。
大自然のイノチの営みに超然と立ち構え、外界の変化に一喜一憂することなく恬淡として、
我関せずの平静さこそ キリスト者の理想なのか。
ここで当然のことながら、規範・理想となるのはギリシャやローマの世界ではなく、
ひとえにイエスの生き方、イノチあるもの・代わりゆく者への彼の関り方である。

このような問題意識をもって福音書に、イエスの心・イエスの生きざまを 尋ねたいものだ。
「たとえ話」の背後に、イエスの眼差しや心配りが あらわに読み取れるのでは。
フランシスコ教皇は、「すべてのイノチあるもの」に配慮する祈りの月間を呼びかけた。

また彼が切望する「エコロジカルな回心」への呼び招きは、
虐げられ危うくされている人々への連帯だけではなく、人間以外の全被造物の
生息・存続・繁栄をキズカイ、人間によって存亡の危地に瀕している イノチあるものの
現状を鋭く指摘している。

冷暖房を兼ね備えた エアコンが普及した。
その代償なのか、秋の訪れ・風の知らせ・雲ゆき・虫の声にすっかり鈍感になってしまった。
人工のもの・機械に頼りきりの生活は、自分の眼で確かめ、自分の手で作り、自分が汗を流し、
自分の舌を頼りに調理することを怠りがちになる。
スーパーの売り場に行くと驚ろくばかり。調理済み、湯をかけるだけ、温めるだけ、
既に作られた 何十種類ものドレッシングなど。

お蔭で、日本の食卓が随分と みすぼらしくなってしまったのではないか。
便利ではあるが その実・まがいもの、手間暇いらずの製品・純然たるつくりものが、
どこにもここにも のさばっている。

またまた年寄りのヒガゴトになってしまった。
世の中は大きく変わり、生活はますます忙しくなったが、
各自の主体的な選びこそ もっともっと大切になってきた、流され踊らされないために。

天は神の栄光を語り、大空は御手の業を告げる」 

中村健三 合掌