中村神父メール   20/07/22


お元気ですか。
三蜜などという 生まれて初めて聞く言葉が まかり通って、
なんだか住みにくくなりました。

夏の訪れも まじかになり、暑さ対策が 必要になりますね。
しっかり水を飲みましょう。 どうぞお達者で。





六甲春秋 14  少年老い易く、学なり難し

 何時からだったのか、足元が覚束なくなり忘れっぽくなったのは。
いっこうに降り止まない梅雨空を見上げながら、思案している。
この間、イエズス会の年長者リストを見ていて驚いた。
最年長は99歳のブラザーマルコさん、最年少は23歳の神学生ヂマンジャさん。
しかし何と81歳の私は、179人中の62番目に堂々とノミネートされているではないか。

知らない間に、誰に断って、為すこともなく等々、多くの想いが湧き起こり、
ただただ呆れてウロタエルばかり。
まだ何かやり残したことがあるのか、人生に多くの未練があるのか。有るようで無いのか、
無いようで有るのか、何だか落ち着かない。
そういえば確かに、周りには自他ともに老いを抱えた人々が意外に多いのに気づく。

旧約では、歳を重ねる人生の旅路の果てに 死後の賞罰・天国や地獄よりも
むしろ、生命あるものの定め・道と考え、死を当然視する。
その意味で ヨブは「私は裸で母の胎を出た。また裸で還ろう。主は与え、主が取られた。
主の御名は賛美されますように」と堂々と祈っている。

つまり生まれたての嬰児の無力さ、すべてを母に頼るしかない非力さは、
人生の終局に再び訪れ、嫌でも誰かに全く依存し介護される定め・道を踏まえて、
むしろ神を勇ましく賛美するヨスガとしている。

このような死生観は 新約に至って劇的な変化を遂げ、
イエス自らが苦と死を経て復活へ過ぎ越したように、イエスを信じ彼の道行きに従う人々も
また神の恵みによって、新たな永遠の生命に与る希望を戴くのである。

うたい文句や表看板はこれぐらいにして、
むしろ老いることの内実・現れ方を、自分の体験を通してまとめてみようか。
何だかめっきり足の指先に力が入らず、けつまずく事が増えた、
自分では脚を上げているつもりなのだが。手先に問題があるのか、
テーブルから食器や箸を掻き落とすことが増えた。

腰を屈めることが不自由なのに、落としたものを探したり拾ったり容れ直したりが
多くなったものだ。
相手の名前を尋ねるのが怖くなった、どうせ直ぐに忘れてしまうのを気遣って。
ど忘れ、勘違い、思い込み、物忘れが自慢じゃないが 急に増えた。
しかし有難いことに、駄目だしばかりではない。

今までには考えられない、或る成熟も聞き分けも忍耐もアキラメも増し加わったのではないか。
俺様が是が非でもやらなければ、儂が万難を排しても頑張らなければ、
というシャチコバッタ悲壮感は余り無い。

人間がやること為すことは何であれ〔権力争い、金もうけ、学問の研鑽、芸術、著作〕
いずれも多寡がしれたもの、ほんの数十年間は もて囃されてもそれで終わり、
何と儚くも過ぎ去りタワイナイものなのか。平家物語の序段が身近に偲ばれてならない。

教会は何百年にわたって終課〔一日の働きや営みを終えて眠りにつく直前の祈り〕として、
ルカ福音書2章29−32節に記された シメオンの賛歌を唱えてきた。

主よ、今こそ、あなたは御言葉のとおりに、この僕を安らかに去らしてくださいます。
私の眼があなたの救いを見たのですから。
この救いはあなたが万民の前にお備えになったもの、異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの栄光です。

感謝のうちに、信頼のうちに日毎、唱えようではないか。

中村健三  合掌