中村神父メール   20/06/24


今回は少し筋張った内容になりました。 どうでしょう。
教会のほうへは、スペースを考えて 第三の点までにしましたが。





六甲春秋 13  夏が来れば思い出す
 
梅雨の長雨が続くが、時には合間に暑い夏日が挟まる。
教会のミサは有難いことに再開されたが、まだ数多くの厳しい制約が付いている。
今後の先行きは分からないが、ゆっくりと正常化に向かう大きな希望があるようだ。

この間はフロイスの日本史を読破したので、心にわだかまっている事柄をマトメテおこう、
同じロヨラのイグナチオのへなちょこ同志として。

かっての宣教師たちを批判したり、彼らのイエスの福音に賭ける熱誠を軽くみるからではない。
むしろ心からの敬愛と讃嘆を表すためであり、命がけでイエスの福音に殉じた
彼らの勇気と忍耐にアヤカル恵みを願い求めるばかり。

しかしながら カトリック教会が神の絶えざる支えと導きによって、
この400年余りをかけて新たな気づきを得、大きな成長と変貌を遂げた回心の事実にも驚く他はない。
その意味では フロイスの日本史は、現代の教会にも大きな勇気を与え、考えこませ、
時には真摯な反省を促し、新たな対応を求める起爆剤でもある。

先ず第一に、異宗や異教またその信奉者への対応である。
偶像を崇拝し拝跪する者・淫祠邪教に耽る者として、一方的に決めつけ排斥し、
神の劫罰を当然視することは イエスの心といえるのか。
また人々が尊崇してきた僧侶や寺社や仏像やお札を、イエスの名のもとに嘲笑し廃棄し焼滅すること、
また悪魔の手先である教役者に神の厳罰を希求することは、
キリスト者の信仰が要求する当然の帰結ではない。

批判や排斥の前に、どれほどの真剣で永い研鑽が必要であろうか。
アナテマ シットという異端の排斥・断罪で結ばれた 従来の公会議の宣言からは別離して、
1965年に教皇が認可し公表した 第二バチカン公会議の宣言によって、
教会は 諸宗教に対する尊敬と対話と協力とに 大きく踏み出した。

第二に、キリスト者の存在や信仰の現実は、
洗礼者の実数の増大や伸長に 簡単に同一視してはならないと思われる。
たしかに宣教師たちは、最果ての地を訪れ 苦難に耐えて宣教に献身し、司祭・パードレも
修道者・イルマンも自らの血潮と汗水と涙の最後の一滴も捧げ尽くした殉教者であった。
しかし 彼らの信奉した神学はかなり疑わしいかもしれない。
キリシタン領主に恵まれた領民が、喜び勇んで キリシタンになる洗礼を受けたことは
歴史的な事実ではあるが、そのような集団行動が 全くの自由な主体的な選びに基づいたか否か、
上からの圧力や周りへの遠慮も 大いに働いたかもしれない。

誰でも洗礼を受ければ 自動的に救われて天国に行き、
誰でも受けなければ 滅びて地獄に行くというのは 余りに単純すぎるのでは。

第三に、イエズス会が踏襲したトップダウン方式は、当時の政治的で地域的な情勢からみて、
考えられる限り 有効で可能な唯一の方針だったと思われる。
こうしてザビエル自身は まず京都のミカドからの許可書を得ることを志し、
山口から京都への 厳しい冬の旅を敢行した。

戦国時代の荒廃したミヤコ、天皇の権威の失墜を前に、
あろうことか 中国の皇帝に拝謁して公許を願うつもりだった。
以後の宣教師たちも この戦略をおし進め、こうして時代の覇者たち・信長や秀吉や家康から
厚誼を得、宣教の許可を獲得した。

しかし彼らが 権謀術数の限りを尽くして全国制覇を成し遂げた後は、
神や仏に勝る唯一の絶対者・独裁者に成りかわり、仮借のない残忍な迫害者になる必然性に
気づかなかったようだ。

第四に、当時の世界で大船を僻遠の東洋の地に送れる国はごくごく限られ、
さらに貿易・商売という主目的に添えてのみ、宣教師の海外派遣や活動が可能であった。
カトリックを奉ずるポルトガル・スペイン帝国の独占体制に、
プロテスタントのオランダやイギリスが割込み、交易の莫大な利権ばかりか、
植民地の獲得や奴隷売買などを巡って 互いに熾烈な争闘を繰り広げ、
ライバルを蹴落とすためには 手段を選ばなかった。

各修道会の異なる宣教方針や キリスト教の内なる分裂と対立は、混惑を大きく助長し
解決のメドそのものが何処にも無かった。

こうして現地の諸国が、強権的な措置を取らざるを得なかった事情も大いに理解できるのである。