中村神父メール   20/05/26


長いトンネル、かなたに 新しい展望が拓けてきたかも。
そろそろ身動きできるかな。

人が押し付ける不用不急など 糞喰らえとばかり、 自分の勝手気ままに生きていますが。





六甲春秋 第12回  閑居と余暇のなかで

 強いられた開店休業の日々、何か意欲的に取り組むことがないか
あれこれ試行錯誤を繰り返した。皆さんも数多く試されていることだろう。

 ひっそりと聖堂で祈っている後ろ姿があり、花のお世話に汗を流している方々や、
毎日そろって散歩している夫婦をみかける。
友達と大声で話しながら自転車をこいでいる高校生たちや、
お母さんに手を引かれてウロウロしながらお宮参りをしている女の子にも出会った。
普段ならばあまり気づかない人々の姿や動作に目が留まる。

さて俺様は 何をしようかとあれこれ思案している。
芦屋の足湯にも喜んで出かけたが、教会で蓄えられているCDやDVDを
なるべく多く視聴することに努めている。

また図書室には 数多くの専門書が並んでいるが、フロイスの日本史全十巻が揃っているではないか。
そこで目下まだ七巻目ではあるが、少し内容に立ち入って自分なりの感想をまとめてみようか。

 まず驚くのは信長・(光秀)・秀吉・家康の3代にわたる支配権の移り変わりや
動乱がつぶさに辿られ、天下人として君臨する各人物像があらわに活写されている。
権力や覇権や領地を目指して 各地に群雄がヒシメキ合い、権謀と術数の限りを尽くして
戦争と騒乱に明け暮れした時代に、キリスト教の宣教師として 直接に絶えず動乱に巻き込まれ、
生命の危険に瀕しながらも フロイスの適確な歴史家としての眼力に恐れ入るばかり。

彼は職務上でも直接に、イエズス会士が各地からローマの本部に定期的に送る
報告書や直筆の書簡類に接していたが、まさに当事者・目撃証人として深く鋭く広い視野で、
変転して止まない流動的な事態のただ中に浮きつ沈みつ、出来事の実相・表てと裏とを
見事に解き明かしている。

それぞれ一癖も二癖もあるツワモノたちが 混沌の極みから抜け出し勝利者として君臨するために、
どれほど非情に徹し どれほど強欲に振舞い、どれほど巧妙に立ち回わり、
また傲慢不遜であったかを 具体的に生き生きと描写している。

 第二の驚きは、先祖伝来の宗教・神道や仏教から 命がけでキリストを選んだ入信者たちの
たくましい信仰である。
周りの人々からの脅迫と嘲笑と追放にもひるむことなく、
唯一の神の摂理を信じ抜く勇気・ひたむきさに打たれる。

苦行や祈りに励み、互いの交わりや奉仕の業に真剣だった。
特に身分的には卑賤・文盲といわれる人々が示した、教えに殉ずる生き方が際立っている。
恐れと祟りに満ちた 多神教的な風土にさらされ、性の風俗や結婚に関する乱れにとり囲まれ、
切り捨て御免の厳しい身分制に耐え、また支配者の勝手な横暴と収奪にさらされながら、
毅然とイノチを賭けて信仰を守り抜いた。

さらに彼らが、何千里の波頭(暴風と難船と海賊との危難)を越えて
イエスの福音を携えて訪れた宣教師たちに、いつも変わらぬ親愛と敬意、惜しみのない支援と協力を
喜び勇んで果たした事実にも目を瞠る。

 第三にキリスト教の宣教の仕方について、かってと今とは事情が全く異なるけれども
示唆に富むことが多く、私個人としての反省も提案も注文も数多く思い浮かぶ。
いつか機会があれば ゆっくり考えて書いてみたい。

私たちは殉教者たちの子孫、安閑と世俗にまみれ、ほどほどに生きているのが申し訳ない。 

主、憐みたまえ。キリスト、憐みたまえ。