中村神父メール   20/04/07


コロナ騒ぎで世界中が浮足立っています。お元気ですか。
モダンな病気にかかり、流行の最先端を行くことの無いよう、
どうぞご自愛ください。

私は文字通り失業者となり、
教会活動は四月一杯は 少なくとも開店休業ですから、大いに遊び暮らしています。
不要不急ですが、大いに出かけています。
本人はお礼参り・巡礼のつもり、決して物見遊山ではないつもりと 強弁していますが。





六甲春秋 10 十字架を仰ぎつつ

 この2、3月の間に何度聞かされたことか、新聞もテレビも連日連夜にわたって、
コロナウイルスの差し迫った脅威についてがなり立てた。
いたずらに恐怖心は増大し、人に対する警戒心が深まった。
心ないデマに踊らされて、自分なりの判断力を くらまされることもあったのでは。

 密閉空間や不特定の群衆がヤリダマに上がり、こうして各種の催し物は敬遠され、
プロの猛者どもが競い合うスポーツも 無観客か延期か中止かの踏み絵を強いられた。
しかし今日も全くヒトケの絶えたまま、土俵上の関取り衆は死に物狂いで相手と戦っている。
勝ちか負けか相撲の過酷な世界にウイルスは入り込めないのか、
日ごろの鍛錬や節制が厳しい吟味に耐えている。

空気中に極微細で浮遊するので目に見えず、マスクなどで防除することは出来ないとも云われる。病原菌と戦い克服する各人が備える 抵抗力・体力こそが問われている。
 よく食べ、よく歩み、よく働き、よく休息することをオロソカニして、
人混みを避け部屋に閉じこもって、ただ寝転がってテレビ漬けでは覚束ないかぎり。

 教会の内外も異様で未曾有の状況が続く。何と主日のミサが禁止され、
週日のミサも研究会も集まりも一律に中止された結果、
大小の聖堂には 無人の静寂が支配している。

このような光景を前に四旬節を過ごすことは、
私には初めての失業体験で いたく慌てふためいている。
しかしながら 今は厳粛な四旬節のさなか、
4月12日の主イエスの復活を目指して 恵みと救いの日々になるよう、
今年ならではの全くユニークな心準備を続けたい。

イエスが復活したという神秘は 私たちにどのような意味を持ち、
恐れと疑いにサイナマレル日々を 支え導くのか。
この災禍に 何か福音的な音信・おとずれがあるのか。
一つの驚きは、武漢に端を発しダイヤモンドプリンセス号の乗員に及ぶ騒動が、
瞬く間に 全世界に波及した事実である。

今や好む好まざるに係らず世界は狭く小さくなり、我独りの安穏も没交渉もなく
自国主義もあり得ない。
人間の営みは全てグローバルなつながり・網目に必ず結ばれている。
人間と物流と情報のネットワークが いかに緊密になり依存が深まったか、
ただ驚き呆れるばかり。

見ることも掴むこともできない空気、
どこにもここにも偏在し 空気を呼吸することなしには 生存できない者にとって、
空気中に浮遊するコロナビールスほど厄介な相手はいない。
しかし観点を代えれば、 空気は人間の憎しみや悲しみや殺す心にも譬えられ、
その毒気の伝播によって 人間世界は汚染され死滅する。
3月8日の神戸新聞「正平調」は、オレオレ詐欺の根源に「三ダケ主義」を指摘していた。
つまり、今だけ金だけ俺だけという恐ろしい心である。
しかし全く反対のことにも気づく。
つまり空気は イノチ、喜びと希望の現れ、恵みそのものである。
我も彼も 毎瞬間このイノチに活かされ、意識するかしないかに関わらず
この恵みを呼吸して生きている。

相応の警戒を払いながらも、恵みとイノチである空気・聖霊の息吹を
いつも胸一杯に呼吸しよう、恐れる心を捨てて。 

「自分のイノチのことで思い煩い、自分のカラダのことで思い煩うな。
また自分のアスのことを思い煩うな」と、イエスは福音を告げている。 

 中村健三  合掌