中村神父メール   19/09/18


少しずつ秋の気配が濃くなってきました。 お元気で何よりです。
三月会で、中山君の元気な姿がありました。
彼は子供たちに、木工の楽しさを教えてくれるとか、期待しています。





 六甲春秋4  秋の前触れに想う

福知山の田舎を車で走っていたところ、小さな緑色のイガ栗が道路に落ちていた。
いくら暑い日が延々と続くといっても、静かに秋が近づいている。
西日が強く車の窓から差し込み 疲れきってしまったが、
自然は 着実に秋の気配を強めているのだ。

そういえば 朝と夕べは爽やかな風が吹き抜け、幾分かしのぎ易くなった。
夕飯の食卓には有難いことに、甘くておいしい梨や葡萄が上るようになったではないか。

 六甲教会に赴任して以来、新たな嬉しい発見の一つは 同級生との定期的な交歓である。
卒業して ほぼ50年以上の間は その重大さに全く気づかなかった。
それぞれの生路をがむしゃらに歩むまま、時たま個人的に会って話したことはあったが。
しかし共に人生の秋を迎える同期生が時に集まり、
なじみの場所で 酒を酌み交わしながら談笑する。

私の場合は高校生としての3年間だけの関わりではあるが、
人によっては小中高ばかりか 大学の4年間も同期の者もいる。
そこには、他の付き合いや交流には無い 独特の雰囲気がある。
どんな話題や悩みであっても、誰もが すぐに理解し共感できるからなのだろうか。

卒業以来の永がい年月、人知れず踏み越えた山や谷の多さ、喜怒や哀楽の浮き沈み、
出会いと別れの色模様など 何も言わなくても互いに通じ合える。
さらに皆が例外なく80歳の大台(あるいはカウントダウン寸前)を迎え、
改めて生老病死の重い定めに 誰しも一喜一憂している。
マダラ模様で現れる認知症、嫌な検査や怖い手術の差し迫り、
今までの生きがいであった 仕事や活動の手放し、
慣れた所で つまずきヨロメく危なさ、物忘れや取り違えの多さなどなど、
同年配ならば 一切の説明はいらない。

他人事ではなく まさに我のこと、痛いほどすぐに思い当たる。
また残念ながら 自他ともに、外目の頑健さや強壮さにあまり信頼をおけない。
怪我や病気は本人の注意や用心によっても、いつも避けられパスできる保証もあるまい。
因果応報を越えた災難が 突然にまるで無差別かのように降りかかり、
人はただ泣き叫びながら この不意打ち(神の摂理?)を引き受けるばかり。
この人生の秋が 抱えるキワドサの連帯感も、言わず語らず共有している。

しかし時には、どんなに振り返ってみても 高校生時代のオトナシイ姿や言行から、
現在の生き方の頼もしさやガメツサが どうにも結びつかない怪物たちがいる。
勿論 かっての物腰や容貌がそのままで、過ぎ去った60年の月日を全く感じさせない
ソックリサンもいるが。

 9月16日の午後、六甲カトリック教会で
三日月会(70歳以上の信徒、総数は618人とか)の総会と懇親会があった。
参加者は100人ほどだったが、なかなかの壮観だった。
足腰はいささか不自由であっても、主なる神がお呼びになる時まで
人生の旅路を共に祈り助け合いながら 全うしようではないか。

信仰を同じくする仲間・同志・戦友として、もっと親しく関わり合いたいものだ。

中村健三  合掌