中村神父メール   19/09/03


< 9月の便り >





 六甲春秋  19年9月 ご縁のままに

 19日から、西宮のトラピスチンで自分の黙想を行った。
かって那須の修道院を50年以上も前に、こわごわ訪問したことを懐かしく思い出す。
国立音大のカトリク研究会の顧問をしていたが、
召し出しを感じてトラピスチンに入りたいという学生がいた。

自分はまったく無知だったので、那須にある同会に出かけた。
祈れ働けというモットーのもと、貧しくたくましく、
隠れた生活に真剣に取り組む姿に驚き呆れた。

大学を卒業後に当人は「恐ろしくなった」と言って遂に入会しなかったが、
わたしのご縁は 司祭叙階後にも続いた。
高齢のガブリエル神父の代わりに、幾年も那須修道院のクリスマスや聖週間の
夜の典礼を司式した。

杉林の下枝打ちにも汗を流したが、当時はまだ20匹余の乳牛を飼い、
新鮮な自家製の牛乳でガレットを作っていた。

また宮古島や安心院、さらに信徒も伴って伊万里にも幾度も訪れた。
チャプレンの神父たちの独特の生き方も印象に残っている。
ここ西宮のトラピスチンは甲山の麓にあり、日帰りで大昔に一度訪れたことがある。

 21日の10時ごろから、すぐ上にある鷲林寺が賑やかになり
鐘・太鼓・ドラなどの鳴り物入りで、10人ほどのお坊さんたちの読経が始まった。
毎月の例祭・大護摩供養が檀信徒も多数参加して行われていた。
先祖供養として盛大に荘厳に執り行われることに 別に異議はないが、
外回りで手伝う寺男たちの尊大な態度はいささか興ざめだった。
ロウソク代、お札、経木、昇殿など全て お金の多寡と結ばれているみたいだ。

 自分にとって最も考えさせられたのは、
鷲林寺が弘法大師空海が 833年に開基したことである。
今日までの長年月を、どれほどの盛衰と興亡の風雪を経てきたことか。
広大な寺領と僧坊を抱え近隣に際立った光彩を放つ存在だった時期があり、
また権力争いに巻き込まれ 焼亡や敗残の憂き目にさらされたことも数限り。
何と寺が無住になったこともあると、案内板には書かれていた。
しかし四国の遍路道や札所にも、高野山にも、厳しい修行に明け暮れる修験道の行者にも、
まさに空海の生きる力・求道心が今も変わらず溢れみなぎっている。
その意味では同行二人、確かに空海は今も生き働き続けている。

 祭りに賑わう寺域から、ほんの300メートルも離れないところに
シトー会の修道院が建っている。
この地に創立以来、100年くらい経つのだろうか。
帰宅すると聖堂では、昼食前の6時課が静かにナゴヤカニに捧げられていた。
この修道院では 8人のベトナム出身者が祈れ働けの生活に励んでおられる。
50年の後に、200年後に仏教のお寺は キリスト教の修道院は、どうなっているのか。
歴史の浮き沈みにもまれながら、時の印に応えながら、我も彼も力強く生き続け、
共に地の塩・世の光と存続し、尊い使命を全うしていけますように。 

中村健三  合掌