中村神父メール   19/06/22


< 六甲の春秋 >






 この間は一念発起、卒業以来はじめて六甲学院の体育祭にでかけた。
開会式は9時ということで、険しい道をあえぎながら登った。

何よりも驚いたのは、新しい大きなマンションが立ち並び壮大な見晴らしが
大きく遮られていたことだ。
かっては夏休み中の作業に狩りだされ、鶴嘴やシャベルを揮って挑んだ
文鎮山は何処へ行ってしまったのか。

今は学校の校舎もほとんど全て建て代えられ一新されて、
かえって自分なりの思い出が断ち切られた想いで、
あまり居心地がよくなかった。

ここ20年近くは、専ら幼稚園の運動会ばかりを見慣れていた者にとっては
違和感があり、午前の部を何とか終って引き上げた、
来年は覚悟して午後の部を見に行くつもりだが。

 六月に入って、教会はイエスの救いの出来事を毎週のように大々的に記念する。
こうして2日に昇天、9日に聖霊降臨、16日に三位一体、
そして23日には聖体を祝う。

いずれも互いに密に関連している神秘、人間の言葉や思考を越えた
神の不可思議な為さり方である。
教会でミサの説教する側からいうと、なかなか骨の折れる一ケ月である。

まず手始めにイエスが弟子たちの前で天に挙げられた昇天と、
聖霊が下り満たされるという意味を少し尋ねてみよう。

かっての教会の暦では、主イエスの復活後の40日目・木曜日に祝われていた。
たしかに昇天はルカの福音書と使徒行伝とのみに記述され、
他の三つの福音書には何の言及もない。
おそらくルカが独り、時間の流れという前後関係の中に、神による救いの出来事を
個別に配置したのだろう。

しかし イエスの在世時と比べて アラワになる激変は、弟子たちの立ち居・振る舞いである。
杖とも柱ともすがりついていたイエスが天に去って
初めて、一切の依存や追憶やあなた任せから解放され、

弟子たちは「私たち」という教会の関わり・交わりを拠り所にして、
地の涯てに至るまで復活の証人として福音を宣べ伝え、
敵対者の攻撃・非難・迫害・残酷な処刑すらももう恐れない。

いつも逃げ隠れしていた臆病な弟子たちは、すっかり生まれ変わり、
まさに「もう一人のイエス」に生まれ変わり、成り代ったというしかない。

つまりイエスの昇天による、弟子たち・キリスト者の独り立ち体験の開始である。
イエスの弟子たちのこれほどまでの大変容を可能にしたもの、
それこそ弁護者である聖霊の働き・イエスの生きた霊・愛と真理の霊である。

キリスト教は二千年余の伝統と教義と儀式を尊重しながらも、
新しい時代の要請にいつも耳を傾け対応する若々しさを保持してきた。

聖霊はいつも命の息吹として キリスト者の深奥を揺り動かし、
時代と民族と地域の制約を越えて 一切の鋳型や先入観を脱する
解放・神の子の自由を、いつも恵みとして頂いている。

ところで 私たちキリスト者は 生きた聖霊の促しに開かれ応えるよう、
現代人の渇望に、貧窮に、困惑にいつも敏感に感応し、
一喜一憂しながら 祈り・学び・聖書を絶えず読んでいるだろうか。