六甲15期生   19/05/17


中村神父メール





安嶋君、このあいの同期会、御蔭さまで楽しい時を過ごしました。
高校時代の面影が歴然と残る人も、全く別人と思われかの人も、
それぞれが 踏み分けてきた時の経過の大きさを思います。
次の機会を楽しみにしています。

私は写真は撮るのも撮られるのも苦手ですが、
文章を書くのはむしろ得意です。
参考までに送らせて頂きます。
編集長に、すべてお任せします。

中村健三

武田君を神鋼病院に、鈴木君と見舞いました。
昨日バス停で倒れて担ぎ込まれた
そうですが、意気軒昂でした。
一週間ほどで退院することでしょう。

中村




19年5月さつき 六甲だより : 皆さん、お久しぶりです。
先月22日に三篠から六甲教会に異動し、久々ぶりでお国入りの運びとなりました。
老いたりといえどもフレッシュマンとして、自分にできることは何でも喜び勇んで果たす覚悟でいます。
その意味では、かってはこうだった、いやああだったなどと、過去の思い出や追憶にふけらぬよう自戒しています。
誰も彼も何処もかしこもすっかり変わった中で、今ここに、私が老いながらも生きること、努めることを大切にしたいと考えています。

 そうは言っても、「ふるさと」の歌が、心の中にヒツコクこだまします。ずいぶんと山が削り取られウサギの姿は見かけませんが、イノシシが健在と聞きます。
また川もコンクリートの護岸工事が施され、池も埋め立てられて民家が立ち並びますが、コブナもどこかに潜んでいるようです。
たしかに人間さまの生活は大切ですが、そろそろ開発・進歩・便利の神話から解放され、
「自然」という効率の悪さ・不便さをむしろ評価し温存して、自然との共存と共生を計る必要があると思います。

 テレビも新聞も平成から令和への改元の祝いと、天神地祇を祭る天皇家の神事を大々的に連日連夜にわたって報じました。
十日間も連休にするほど、そんなにまで大騒ぎする事なのか、いささか興ざめにもなります。

それはとにかく、新元号である『令和』の意味するところを、自分なりに聖書から探ってみることにしました。
創世記の一章がすぐ思い浮かびます。「神が創ったすべてのものを見られたところ、それははなはだ良かった」と。
ヘブライ語のトーブという形容詞は、良い、美しい・麗しいとも訳せます。
とにかく生きとし生けるものばかりか、在りとし在る限りの全被造世界の美しさや素晴らしさを、神自ら大いに・手放しでほめ称えています。
まるで苦しみ悩みも、病気や災難も、不義や罪悪も無いかのような、能天気なオメデタイ神が想定されているのでしょうか。
しかし聖書の記述はいつも、いたって現実的でけっして単なる夢想や願望の表明ではありません。

当時のイスラエルは存亡の危機の只中、バビロン捕囚の敗残と屈辱の中で、神自らによる宣言に耳を傾けているのです、改悛と再起の起爆剤として。
次に和について:聖書は実に雄弁です。和解・赦し合うことによるマドカサと和やかさは、信仰の根幹であり中心として神自ら人々に要求し称賛する最優先事です。
ですから全き救いの訪れである終末を、イザヤははるか彼方に夢みます。「神は国々の間に裁きを行い、仲裁に立たれる。
こうして彼らはツルギを打ちかえて鋤とし、槍を打ちかえて鎌とし、もはや戦いのことを学ばない」と。

願うらくは、夢想の世界ではなく現実の世界・関わりのなかで、私たちは力の限り麗しくまどかに生き働き学ぶように努めていきたいものです、
イノチあるかぎり。             

中村健三   合掌