余田 メール  18/04/12

願いを込めて





一五会卒業60周年同窓会に参加して。  願いを込めて

同窓会 素晴らしかったです。 幹事の方々本当にありがとうございます。

願いを込めて、
人生最後の試練を乗り切るために


60数年前、六甲での宗教の時間、いつもは武宮先生だったのに、その時はフェルケン先生でした。
先生のお話の中で、難破船が無人島に漂着し、一人の生存者が救助を待つも、いくら待てども
助けを得られず、ついには 「ちくしょう!ちくしょう!ちくしょう!」と書き残し
息絶えた姿で発見された。と言う話をされました。
先生は 絶望したり,神を恨んだりしてはいけないと 仰りたかったのだと思います。

私は望月光神父の著書 「サタンについて」の中から 一部を紹介させていただきたいと存じます。

サタンの最後の誘惑の一部より
救世主は、十字架上で最後の時を全くの闇の中で過ごされた。
十二時から三時までの外の闇は、主の心の闇の象徴であった。
「わが神、わが神よ、どうして私をお見捨てに…」との叫びの中に、
救世主は 罪を贖うため「神から捨てられた」状態を体験した。

絶望への誘いより
この最も高度の、また最も決定的な試練の時点で、サタンが手をこまねいているはずがない。
この時こそ サタンは全力をあげて被造物の滅びを試みる。
ユダをそそのかし、ユダヤ人を駆り立てて救世主を死に追い込んだサタンは、
救世主自身に直接歯向かうことはできなくとも、その事業が実を結ぶことを極力妨げ、
一人でも多くの霊魂を神の手から奪い取ろうとする。
救世主自身を失望をもって転落させることは不可能でも
恩寵に忠実な霊魂は最高度の精神生活に達していても、
被造物である限りその転落は可能である。

高所からの転落は それだけみじめである。それによって神の愛は踏みにじられ、
はなばなしい勝利が サタンの手に帰すことになる。
九仞の高い山を築こうとして、もうひと盛りこの土を盛ろうというとき、
つまずいて不成功に終わる。

神を唯一の拠り所とする霊魂が、その神を見失って耐えうるぎりぎりの苦の状態のとき、
ここを先途と 霊魂を絶望へと誘う。
ちょうど飢えている時、“この石をパンに変えよ”との誘惑が襲うように、
心が閉ざされている時、失望の誘惑が襲い掛かる。

サタンはその決定的な時に「九仞の功を一簣に欠か」せようとする。
しかし失望へ落ち込む最大の危険の時は また最大の、そして決定的勝利の時となりうる。
救世主は 身をもって幸、不幸に分かれ目を乗り越える術を教えられる。
「父よ、私の霊をみ手に委ねます」と。

自分の中に 救いのためには何の拠り所をももたない人間にできることは、
一切を神の慈悲に委ねることで、それを唯一の、また最も強力な拠り所とすべきなのだ。
それは神の絶対愛を賛美すること。

死の直前に改心した盗賊は、即日、天国に行けることを救世主自ら約束された。
それは神のあわれみに頼ったからである。
自分の直弟子ユダを失い、いわば見ず知らず、ゆきずりの盗賊をいまわの時に救い得た主は、
救いのために 何が本質的であるかを、極限の形で示された。 

引用終わり。

人間の死亡率は 100%です。我々の場合、それももう近近です。
あの世の素晴らしいところで みんなと再会できますように!!!