高田メール  2018/03/23

60年目の感想** *





飯田 孝之 様、

60年目ということで残念ですが、欠席します。
このところ東京の15会にも全く出席していません。

ここ、つくば市の高エネルギー加速器研究機構には1972年9月、
33歳の誕生月に着任して45年経ちました。
研究室には今も週二、三回向かいます。
硏究所を囲む森の向こうに、窓一杯に拡がる筑波山の四季の移ろいを 
この間ずっと眺めてきたことになります。

つくばもTX(つくばエクスプレス)が開通して10年、
東京からは だいぶん便利な所になりましたが、
それまでは常磐線と田舎のバスを乗りついで2時間以上かかり、
関東平野のチベットとも言われてきました。

着任して間もない頃、実験用に半畳ほどの大きさの純チタン板を神戸製鋼に
注文したことがあります。
荒縄で縛って届けられた荷物は、研究室の真下の駐車場の松の幹に無造作に
立てかけられていました。
それは遠い神戸からはるばると、ユーハイムかフロインドリーブの大きな焼菓子が
送られてきたように見え、一寸感慨にふけったことを 今だに思い出します。

こんな鄙びた田舎に、しかしながら、久保田龍三郎、鈴木肇、谷口幸紀、中井健夫、
安本純三と 5人もの同期生諸君が訪ねて来られ、
同じ駐車場から一周3キロの実験施設の見学案内に向かいました。

久保田君は すぐ近くにある建設省(当時)土木研究所に出張したついででした。
鈴木君は 土浦市にある巨大DIYホームセンターのジョイフル本田に大事な仕事が
あってのことでした。

谷口君とは、土浦駅から筑波大学へ向かう道で互いの車が前後になるするという
偶然に偶然が、重なったためです。

さて実験施設には 非常に精密な標準電波を配信する必要があって、
欧米も含め いくつかの会社の発信器を検討し、結局アンリツの製品が
優れているので選びました。
その結果、中井君が数人の部下を連れてのご来訪となりなました。

安本君は利根川・鬼怒川合流部の水流調節ゲートの定期点検のついで
につくばに足をのばされたのですが、霞ヶ浦湖畔の釣り宿で
差し向かいで食べた鰻重はとても美味しいものでした。

ここまでは15期生 直接の思い出ですが、やや間接的なことも蛇足に記します。
大学に入ってすぐ、カトリック研究会に顔を出しましたが、
そこで一寸年上の橋本さんという方と親しくなりました。
私がまだ川崎の東芝中央研究所にいたときに、仕事で訪ねて来られたことがありました。
立ち話で最近結婚したと言われたのですが、
それが高羽小で同級の藤本准子さんとのことでした。

それから三十年後、同じ研究グループの若い人から、
日本鋼管(当時)のインバー(メートル原器などに使う温度膨張係数が0の鉄鋼)を
購入するので、会社の技術の人たちとの打合せに 同席してくれと頼まれた。
そのような場合、官公庁担当営業の人も来られるのですが、
その時も 橋本と刷られた名刺を頂きました。
ところが打合せが終わったときに 突然、父母からよろしくとの旨を伝えられ、
なんと1時間あまり 密かに橋下二世に観察されいたことが分かりました。

最後に、今振り返って最も六甲との関係を深く感じるのは、天木敏夫先生のことです。
先生は京都一中で朝永振一郎先生と同級であり、
同様に戦前の理化学研究所で仕事をされたした。
そこで添付pdfにありますように、仁科芳雄博士のもと、米欧以外では初めての
サイクロトロンという加速器の建設に尽力された 6人衆のお一人でした。
写真の説明にあるように 中央の仁科芳雄博士の右に写っているのが天木先生です。

武宮校長が言われていたように、
先生は戦後、神戸大学からのお誘いがあったにもかかわらず 
六甲で教鞭を執られた訳ですが、私も1964年以来、
全く同じ加速器分野の研究を続けて来られたことに
何か偶然以上のものを感じざるを得ません。

六甲時代、先生は入試に出ない原子物理学のことは 一切触れられませんでした。
ましてや理研で何をされたか、一言も伺いませんでした。
しかし東海道線蒲原にあった 大規模な水銀整流器の話はよく覚えています。
なぜこれを話されたのか 今となってやっとわかりました。
サイクロトロンに限らず、全ての大型加速器には大電力の交流から直流への
変換装置が必要であるからで、私も長年力を注いできた所です。

このように天木先生をはじめとして、英語、国語、数学、理化学の多くの先生方から
一生にわたって 指針となる教育を受けたことを 今はつくづく幸せに思っています。
同期生の皆さんの温かい友情とともに。

髙田 耕治


サイクロトロン.pdf